假字(カナ)の事
此記に用ひたる假字のかぎりを左にあぐ。
- 「ア」阿
- 此ノ外に、延佳本又一本に、白檮原(カシバラ)ノ宮ノ段に、亞亞(アヽ)といふ假字あれども、誤字(アヤマレルモジ)と見えたり。其由は彼處(ソコ)に辨(ワキマフ)べし。
- 「イ」伊
- 「ウ」宇汚
- 此ノ中に、汚ノ字は、上卷石屋戸(イハヤド)ノ段に、伏汚氣(ウケフセ)とたゞ一ツあるのみなり。
- 「エ」延愛
- 此ノ中に、愛ノ字は、上卷に愛袁登古(エヲトコ)愛袁登賣(エヲトメ)、また神ノ名愛比賣(エヒメ)などのみなり。
- 「オ」淤意隱
- 此ノ外に、下卷高津ノ宮ノ段ノ歌に、於志弖流(オシテル)と、たゞ一ツ於ノ字あれども、一本に淤とあれば、後ノ誤リなり。
- 隱ノ字は、國ノ名隱伎(オキ)のみなり。
- 「カ」加迦訶甲可 [濁音]賀何我
- 此ノ中に、甲ノ字は、甲斐(カヒ)とつゞきたる言にのみ用ひたり。[國ノ名のみならず、カヒとつゞきたる言には、すべて此ノ字を書り。] 可ノ字は、中卷輕嶋ノ宮ノ段ノ大御歌に、阿可良氣美(アカラケミ)とあるのみなり。[下卷朝倉ノ宮ノ段ノ歌に、延佳本に、可豆良(カヅラ)とあるはひがごとなり。]
- 賀ノ字は、清濁に通はし用ふといふ人もあれど、然らず。必濁音なり。[記中の歌に、此字の見えたる、おほよそ百三十あまりなる中に、必清音なるべきところは、たゞ五ツのみにして、其餘(ソノホカ)百二十あまりは、ことゞゝく濁音の處なればなり。]
- 何ノ字は、上卷ノ歌に、和何(ワガ)と三ツ、また岐美何(キミガ)ともあるのみなり。我ノ字は、中卷に、姓の蘇我(ソガ)のみなり。[下卷には宗賀(ソガ)とかけり。]
- 「キ」伎紀貴幾吉 [清濁通用]岐 [濁音]藝疑棄
- 此ノ中に、伎ノ字と岐ノ字との間(アヒダ)に、疑はしきことあり。上卷の初(ハジメ)つかたしばしがほどは、清音には伎ノ字を用ひ、岐ノ字は濁音にのみ用ひて、清濁分れたるに、後は清濁共に岐をのみ用ひて、伎を用ひたるはたゞ、上卷八千矛ノ神ノ御歌に、伎許志弖(キコシテ)、また那伎(ナキ)、[鳴也。] 中卷白檮原ノ宮ノ段に、伊須々岐伎(イスヽギヽ)、輕嶋ノ宮ノ段に迦豆伎(カヅキ)、下卷高津ノ宮ノ段に、伊波迦伎加泥弖(イハカキカネテ)、朝倉ノ宮ノ段に由々斯伎(ユヽシキ)、これらのみなり。抑記中凡て一ツノ假字を、清濁に兼用ひたる例なきをもて思フに、本は清音の處は、終リまでみな伎ノ字なりけむを、字ノ形の似たるから、後に誤リて、みな岐に混(マギ)れつるにやあらむ。[又伊邪那岐ノ命の岐字を、伎と作(カケ)る處もあり。是レはたまぎれつるなり。] されど今は定めがたければ、姑く岐をば清濁通用とあげつ。
- 貴ノ字は、神ノ名阿遲志貴(アヂシキ)のみなり。[歌にも此字を書り。]
- 幾ノ字は、河内の地名志幾(シキ)のみなり。[大倭のはみな師木とのみかけり。]
- 吉ノ字は、國ノ名吉備(キビ)、[歌には岐備(キビ)と書り。] 姓(カバネ)吉師(キシ)のみなり。
- 疑ノ字は、上卷に佐疑理(サギリ)、[霧なり。] 中卷に泥疑(ネギ)[三つあり。] 須疑(スギ)[過なり三ツあり。] のみなり。
- 棄ノ字は、上卷に奴棄宇弖(ヌギウテ)とあるのみなり。[同じつゞきに此ノ言の今一ツあるには、奴岐(ヌギ)と書り。]
- 「ク」久玖 [濁音]具
- 「ケ」氣祁 [濁音]宜下牙
- 此ノ中に、下ノ字は、上卷に久羅下(クラゲ)[海月(クラゲ)なり。] とあるのみなり。
- 牙ノ字は、中卷に佐夜牙流(サヤゲル) とあるのみなり。
- 「コ」許古故胡高去 [濁音]碁其
- 此ノ中に、故ノ字は、上卷ノ歌に故志能久邇(コシノクニ)と、只一ツあるのみなり。[文(コトバ)には高志(コシ)と書り。]
- 胡ノ字は、中卷白檮原ノ宮ノ段に、盈々志夜胡志夜(エヽシヤコシヤ)、[二ツあり。] 下卷甕栗ノ宮ノ段ノ歌に、宇良胡本斯(ウラコホシ)、これのみなり。
- 去ノ字は、白檮原ノ宮ノ段に、志祁去岐(シケコキ)とあるのみなり。[もしは古ノ字を誤れるには非るにや。]
- 高ノ字は、地名高志(コシ)と、人ノ名高目郎女丸高王(コムクノイラツメマロコノミコ)と、これらのみなり。
- 碁ノ字は、或は基ノ字に作(カケ)る處もあり。是レは本より二ツかとも思はるれど、諸本互(タガヒ)に異(コト)にして、定まれざれば、本は一ツなりけむが、誤りて二ツにはなれるなり。かくて何(イヅ)れを正(タヾ)しとも、今言(イヒ)がたけれども、姑(シバラ)く多き方に定めて、基をば誤リとしつ。
- 其ノ字は、上卷ノ歌に只一ツあるのみなり。[その同言の、前後に多くあるは、みな碁基ノ字を書たれば、是レはたその字の誤リにこそあらめ。]
- 「サ」佐沙左 [濁音]邪奢
- 此ノ中に、沙ノ字は、神ノ名人ノ名地ノ名に往々(ヲリヽヽ)用ひ、又中卷に沙庭(サニハ) ともある、これらのみなり。
- 左ノ字は、國ノ名土左(トサ)のみなり。又佐ノ字を、二所(フタトコロ)作と作(カケ)る本あり。上卷麻都夫作邇(マツブサニ)、また岐作理持(キサリモチ)これなり。是(コ)は皆謝リなり。
- 邪ノ字、おほく耶と作(カケ)り。誤リにはあらざれども、[漢籍(カラブミ)にも、此ノ二字通はし用ひたること多し。玉篇に、耶ハ俗ノ邪ノ字といへり。] なほ邪を正(タヾ)しとすべし。
- 奢ノ字は、神ノ名久比奢母知(クヒザモチ)、奧奢加流(オキザカル)、伊奢沙和氣(イザサワケ)、人ノ名伊奢之眞若(イザノマワカ)など、辭(コトバ)にも、中卷に伊奢(イザ)[二ところ] とある、これらのみなり。
- 「シ」斯志師色紫芝 [濁音]士自
- 此ノ中に、師ノ字は、壹師吉師(イチシキシ)のみなり。[師木味師(シキウマシ)などの師は、訓に取れるにて、借字(カリモジ)の例なり。假字の例には非ず。]
- 色ノ字は、人ノ名の色許男(シコヲ)色許賣(シコメ)のみなり。 紫ノ字は、筑紫(ツクシ)のみなり。
- 芝ノ字は、下卷高津ノ宮ノ段ノ歌に、芝賀(シガ)と只一ツあるのみなり。自字は、地ノ名伊自牟(イジム)、人ノ名志自牟(シジム)のみなり。
- さて右の字どもの外に、中卷水垣ノ宮ノ段ノ歌に式ノ字一ツ、輕嶋ノ宮ノ段ノ歌に支ノ字一ツ、下卷高津ノ宮ノ段ノ歌に之ノ字一ツあれども、いと疑はし。誤リならむか。なほ其ノ處々(トコロヾヽ)に論ふべし。
- 「ス」須洲州周 [濁音]受
- 此ノ中に洲ノ字は、上卷に久羅下那洲(クラゲナス)とあるのみなり。[堅洲國(カタスクニ)洲羽海(スハノウミ)などの洲は、訓を用ひたるなれば、假字の例にあらず。]
- 州ノ字は、上卷に州須(スヽ)[煤なり。] とあるのみなり。洲州の内一ツは、一ツを誤れるにもあらむか。周ノ字は、國ノ名周芳のみなり。
- さて右の字どもの外に、中卷水垣ノ宮ノ段ノ歌に、素ノ字一ツあれども、そは袁ノ字ノ誤リなり。
- 「セ」勢世 [濁音]是
- 「ソ」曾蘇宗 [濁音]叙
- 此ノ中に、曾ノ字は、なべては清音にのみ用ひたるに、辭(テニヲハ)のゾの濁音には、あまねく此ノ字を用ひたり。[書紀萬葉などもおなじ。] 故レもしくは辭(テニヲハ)のゾも、古ヘは清(スミ)て云るかとも思へども、中卷輕嶋ノ宮ノ段ノ歌には、三處まで叙ノ字をも用ひ、又某(ソレ)ゾといひとぢむるゾにも多くは叙を用ひたれば、清音にあらず。然るにそのいひとぢむるところのゾにも、一ツ二ツ曾を書る處もあり。然れば此字、清濁に通はし用ひたるかとも思へど、記中にさる例もなく、又辭(テニヲハ)のゾをおきて、他(ホカ)に濁音に用ひたる處なければ、今は清音と定めつ。そもゝゝ此ノ字、辭(テニヲハ)のゾにのみ濁音に用ひたること、猶よく考ふべし。
- 宗ノ字は、姓阿宗(アソ)宗賀(ソガ)のみなり。
- 「タ」多當他 [濁音]陀太
- 此ノ中に、當ノ字は、當藝志美々(タギシミヽノ)命、また當藝斯(タギシ)、當藝野(タギヌ)、當岐麻(タギマ)などのみなり。
- 他ノ字は、地ノ名多他那美(タヽナミ)、下卷高津ノ宮ノ段ノ歌に他賀(タガ)、[誰(タガ)なり。] これのみなり。
- 太ノ字は、下卷列木ノ宮ノ段に、品太(ホムダノ)天皇とあり。[此ノ御名、餘(ホカ)は皆品陀とかけり。] 又朝倉ノ宮ノ段ノ歌に、延佳本に太陀理(タヾリ)[線柱なり] とあるは、さかしらに改めたるものにしてひがごとなり。諸本みな本陀理(ホダリ)とあるぞよろしき。[なほこの太陀理の事は、彼歌の下(トコロ)に委しく論ふ] また中卷にも、阿太之別(アタノワケ)といふ姓あり。其(ソ)は本(ホ)ノ字の誤リならむかの疑ヒあるなり。
- 「チ」知智 [濁音]遲治地
- 此ノ中に、地ノ字は、神ノ名宇比地邇(ウヒヂニ)、意富斗能地(オホトノヂ)のみなり。
- 「ツ」都 [濁音]豆
- 「テ」弖帝 [濁音]傳殿
- 此ノ中に、帝ノ字は、神ノ名布帝耳(フテミヽ)、中卷に、佐夜藝帝(サヤギテ)とあるのみなり。
- 殿ノ字は、上卷に志殿(シデ)[垂(シデ)なり。] のみなり。
- 「ト」登斗刀等土 [濁音]杼度縢騰
- 此ノ中に、等ノ字は、上卷に、袁等古(ヲトコ)また美古等(ミコト)、下卷に等母邇(トモニ)、これらのみなり。
- 土ノ字は國ノ名土左のみなり。縢ノ字は神名淤縢山津見(オドヤマツミ)のみなり。
- 騰ノ字は曾富騰(ソホド)とあるのみなり。[中卷に勝騰門比賣とあるは誤リなるべし。] さて此ノ縢騰の内一ツは一ツを誤れるにもあらむか。
- 「ナ」那
- 「ニ」邇爾
- 「ヌ」奴怒濃努
- 此ノ中に、濃ノ字は、國ノ名美濃(ミヌ)のみなり。[凡て古書に、農濃などは、ヌの假字に用ひたり。ノの音にはあらず。美濃も、ミノといふは、中古よりのことなり。]
- 努ノ字は、中卷に、美努(ミヌノ)村とあるのみなり。
- 「ネ」泥尼禰
- 此ノ中に、尼ノ字は、上卷に、加尼(カネ)[金なり。] また阿多尼都岐(アタネツキ)とあるのみなり。
- 禰ノ字は、宿禰(スクネ)、また輕嶋ノ宮ノ殿に沙禰王(サネノミコ)、[こは彌ノ誤リにもあらむか。] これのみなり。
- 「ノ」能乃
- 此ノ中に、乃ノ字は、上卷に大斗乃辨(オホトノベノ)神、下卷に余能那賀乃比登(ヨノナガノヒト)、又加流乃袁登賣(カルノヲトメ)、又比志呂乃美夜(ヒシロノミヤ)、これらのみなり。
- 「ハ」波 [濁音]婆
- 「ヒ」比肥斐卑 [濁音]備毘
- 此ノ中に、卑ノ字は、天之菩卑(アメノホヒノ)命[此ノ御名、比(ヒ)ノ字をも書たり。] のみなり。
- 「フ」布賦 [濁音]夫服
- 此ノ中に、賦ノ字は、賦登麻和訶比賣(フトマワカヒメ)、又日子賦斗邇(ヒコフトニノ)命、又地ノ名伊賦夜坂(イフヤザカ)、波邇賦坂(ハニフザカ)、これらのみなり。
- 服ノ字は、地ノ名伊服岐(イブキ)のみなり。
- 「ヘ」幣閉平 [濁音]辨倍
- 此ノ中に、平ノ字は、地ノ名平群(ヘグリ)のみなり。さて幣ノ字は、弊ノ字に作(カケ)る處もあり。其(ソ)は誤リとすべし。其ノ説全(マタ)く上の碁と基との如し。
- 辨ノ字は弁とも作(カケ)る處あるは、同じことゝ心得て寫シ誤れるなり。[こは釋を尺、慧を惠と書ク類にて、畫の多き字をば、音の通ふ字の、畫少(スクナ)く書易(カキヤス)きを借リて書ク例ありて、辨をもつねに弁と書ならへる故に、たゞ同じことゝ心得たるものなり。別に此ノ字をも用ひたるにはあらず。これは假字なれば、もとより別に弁ノ字とせむも、事もなけれど、なほ然にはあらじ。]
- 「ホ」富本菩番蕃 [濁音]煩
- 此ノ中に、本ノ字は、上卷には一ツもなくして、中卷下卷に多く用ひたり。
- 菩ノ字は天之菩卑(アメノホヒノ)命、中卷に加牟菩岐(カムホギ)、これのみなり。
- 番ノ字は、番能邇々藝(ホノニニギノ)、又番登(ホト)[陰(ホト)なり。] これのみなり。
- 蕃ノ字は、蕃登(ホト)[陰(ホト)なり。] のみなり。番蕃の内、一ツは一ツの誤にもあるべし。
- 品ノ字は、中卷に、品牟智和氣(ホムチワケノ)命とあるのみなり。[同ジ御名を、下には本ノ字を書り。] そのほかは、ホムの二音にこれかれ用ひたり。
- 「マ」麻摩
- 「ミ」美微彌味
- 此ノ中に、彌ノ字は、神名彌都波能賣(ミツハノメ)、彌豆麻岐(ミヅマキ)また下卷高津ノ宮ノ段に意富岐彌(オホキミ)、[此言、餘(ホカ)は美ノ字をかけり。] 遠ツ飛鳥ノ宮ノ段に和賀多々彌(ワガタヽミ)、これらのみなり。
- 味ノ字は中卷に佐味那志爾(サミナシニ)、これ一ツなり。
- 「ム」牟无武
- 此ノ中に、无ノ字は、國ノ名无邪志(ムザシ)のみなり。武ノ字は、國ノ名相武(サガム)のみなり。[相摸と作(カ)ける本もあり。歌には牟ノ字を書り。]
- 「メ」米賣咩
- 此ノ中に、咩ノ字は、中卷輕嶋ノ宮ノ段ノ末、人ノ名當麻之咩斐(タギマノメヒ)のみなり。[こは正しくは{口芋}(メ)と作(カク)字なり。]
- 「モ」母毛
- 此ノ外に、下卷高津ノ宮ノ段ノ歌に、文ノ字一ツあれど、誤リなるべし。
- 「ヤ」夜也
- 此ノ中に、也ノ字は、上卷歌の結(トヂメ)に曾也(ゾヤ)と只一ツあるのみにて、疑はしけれど、姑くあげつ。[なほ其ノ歌の處に云べし。]
- 「ユ」由
- 「ヨ」余用與豫
- 此ノ中に、豫ノ字は、國ノ名伊豫(イヨ)、[中卷下卷には、伊余とかけり。] 又豫母都志許賣(ヨモツシコメ)のみなり。
- 「ラ」羅良
- 「リ」理
- 「ル」琉流留
- 「レ」禮
- 「ロ」呂路漏侶盧樓
- 此ノ中に、路ノ字は、上卷に、斯路岐(シロキ)[二ツあり。] 久路岐(クロキ)のみなり。中卷下卷には、白黒(シロクロ)のロに、みな漏ノ字を用ひたり。
- 侶ノ字は、佐久々斯侶(サクヽシロ)のみなり。
- 盧ノ字は、意富牟盧夜(オホムロヤ)のみなり。
- 樓ノ字は、摩都樓波奴(マツロハヌ)とあるのみなり。[此ノ言今一ツあるには、漏ノ字をかけり。]
- 「ワ」和丸
- 此ノ中に、丸ノ字は、地ノ名丸邇(ワニ)のみなり。[こは訓に非ず。音なり。]
- 「ヰ」韋
- 「ヱ」惠
- 「ヲ」袁遠
上件の外に、記汜游劔梯之天未末且徴彼衣召此忌計酒河被友申祀表存在又、これらを假字に書る本(マキ)あり。みな寫し誤れるものなり。
假字用格(カナヅカヒ)のこと、大かた天暦のころより以往(アナタ)の書どもは、みな正(タヾ)しくして、伊韋(イヰ)延惠(エヱ)於袁(オヲ)の音(コヱ)、又下に連(ツラナ)れる、波比布閇本(ハヒフヘホ)と、阿伊宇延於(アイウエオ)和韋宇惠袁(ワヰウヱヲ)とのたぐひ、みだれ誤りたること一ツもなし。其(ソ)はみな恒(ツネ)に口(クチ)にいふ語(コトバ)の音(コヱ)に、差別(ワキタメ)ありけるから、物に書(カク)にも、おのづからその假字(カナ)の差別(ワキタメ)は有リけるなり。
- [然るを、語(コトバ)の音(コヱ)には、古ヘも差別はなかりしを、たゞ假字のうへにて、書分(カキワケ)たるのみなりと思ふは、いみじきひがごとなり。もし語の音に差別なくば、何によりてかは、假字を書キ分クることのあらむ。そのかみ此ノ書と彼ノ書と、假字のたがへることなくして、みなおのづからに同じきを以ても、語ノ音にもとより差別ありしことを知ルべし。かくて中昔より、やうやくに右の音どもおのゝゝ亂れて、一ツになれるから、物に書クにも、その別(ワキ)なくなりて、一ツノ音に、二タともの假字ありて、其(ソ)は無用(イタヅラ)なる如くになむなれりけるを、其ノ後に京極ノ中納言定家ノ卿、歌書(ウタブミ)の假字づかひを定めらる。これより世にかなづかひといふこと始マりき。然れども、當時(ソノカミ)既(ハヤ)く人の語ノ音別らず、又古書にも依(ヨ)らずて、心もて定められつる故に、その假字づかひは、古ヘのさだまりとは、いたく異(コト)なり。然るを其後の歌人の思へらくは、古ヘは假字の差別なかりしを、たゞ彼ノ卿なむ、始めて定め給へると思ふめり。又近き世に至りては、たゞ音の輕キを以て辨ふべし、といふ説などもあれど、みな古ヘを知らぬ妄言(ミダリゴト)なり。こゝに難波に契沖といひし僧(ホウシ)ぞ、古書をよく考へて、古ヘの假字づかひの、正しかりしことをば、始めて見得(ミエ)たりし。凡て古學(イニシヘマナビ)の道は、此ノ僧よりぞ、かつゞゝ開け初(ソメ)ける、いともゝゝ有リがたき功(イサヲ)になむ有リける。]
かくて其ノ正しき書どもの中に、此記と書紀と萬葉集とは、殊に正しきを、其中にも、此記は又殊に正しきなり。いでそのさまを委曲(ツバラカ)に云ハむには、まづ續紀より以來(コナタ)の書どもの假字は、清濁分(ワカ)れず、[濁音の所に、清音ノ假字を用ひたるのみならず、清音に濁音ノ字をもまじへ用ひたり。] 又音と訓とを雜(マジ)へ用ひたるを、此記書紀萬葉は清濁を分(ワカ)てり。
- [此記及(マタ)書紀萬葉の假字、清濁を分(ワカ)てるにつきて、なほ人の疑ふことあり。今つばらかに辨へむ。そはまづ後ノ世には濁る言を、古ヘは清(スミ)ていへるも多しと見えて、山の枕詞のあしひき、又宮人(ミヤヒト)などのヒ、嶋(シマ)つ鳥(トリ)家(イヘ)つ鳥(トリ)などのトのたぐひ、古書どもには、いづれもゝゝ清音の假字をのみ用ひて、濁音なるはなし。なほ此類多し。又後ノ世には清(ス)む言に、濁音の假字をのみ用ひたるも多し。これらは、假字づかひのみだりなるにはあらず、古ヘと後ノ世と、言の清濁の變(カハ)れるなれば、今の心をもて、ゆくりなく疑ふべきにあらず。又そのほかに、言の首(ハジメ)など、決(キハ)めて清音なるべき處にも、濁音の假字を用ひたることも、いとまれゝゝにはあるは、おのづからとりはづして、誤れるもあるか、又後に寫し誤れるもあるべし。されど此記には、殊に此ノ違(タガ)ひはいとゝゝまれにして、惣(スベ)ての中に、わづかに二十ばかりならでは見えざる、其中に十ばかりは、婆ノ字なるを、その八ツは、一本には波と作(ア)れば、のこり二ツ三ツの婆も、もとは波なりしことしられたり。然れば、記中まさしく清濁の違(タガ)へりと見ゆるは、たゞ十ばかりには過(スギ)ずして、其ノ餘(ホカ)幾百(イクモヽチ)かある清濁は、みな正(タヾ)しく分れたるものを、いといとまれなる方になづみて、なべてを疑ふべきことかは。さて書紀は、此記に比(クラ)ぶれば、清濁の違へることいと多し。こはいといぶかしきことなり。然れども又、全くこれを分(ワカ)たず、淆(マジヘ)用ひたるものにはあらず。凡(スベ)ては正しく分れたれば、かの後の全く混(マジヘ)用ひたる書どものなみにはあらず。さて萬葉は、此記に比(クラ)ぶれば、違へるところもやゝ多けれども、書紀に比(クラ)ぶれば、違ひはいと少(スクナ)くして、すべて清濁正しく用ひ分(ワケ)たるさまなり。これらの差別(ワキタメ)は、その用ひたる假字どもを、一ツ毎(ゴト)にあまねく考へ合せて、知ルべきことなり。たゞ大(オホ)よそに見ては、くはしきことは、知リがたかるべきものぞ。]
其ノ中に萬葉の假字は、音訓まじはれるを、[但し萬葉の書法(カキザマ)は、まさしき假字の例には云ヒがたき事あり。なほ種々(クサヾヽ)あやしき書(カキ)ざま多(オホ)ければなり。] 此記と書紀とは、音のみを取リて、訓を用ひたるは一ツもなし。これぞ正(マサ)しき假字なりける。
- [訓を取ルとは、木(キ)止(ト)三(ミ)女(メ)井(ヰ)の類なり。此記と書紀には、かゝるたぐひの假字あることなし。書紀允恭ノ御卷ノ歌に迹(ト)津(ツ)ノ二字あるは、共に寫し誤れるものなり。又苫の字を多く用ひたる、是も苔を誤れるなり。こはタイの音の字なるを、トに用ひたる例は、廼(ナイ)をノに、迺(ダイ)をドに、耐(ダイ)をドに用ひたると同じ。此ノ格他ノ音にも多し。なほ書紀の假字、今ノ本、字を誤り讀(ヨミ)を誤れる多し。委しく別に論ひてむ。]
然るに書紀は、漢音呉音をまじへ用ひ、又一字を三音四音にも、通はし用ひたる故に、いとまぎらはしくして、讀(ヨミ)を誤ること常(ツネ)多きに、此記は、呉音のみ取て、一ツも漢音を取らず。
- [帝をテに、禮をレに用るも、漢音のテイ レイにはあらず。呉音のタイ ライなり。そは愛(アイ)をエに、賣(マイ)米(マイ)をメに用ると同ジ格なり。書紀にも、此格の假字あり。開(カイ)階(カイ)をケに、細をセに、珮(ハイ)背(ハイ)をヘに用ひたる是レなり。さて用ノ字は、呉音はユウにして、ヨウは漢音なるに、ヨの假字に用ひたるは、此ノ字古ヘは、呉音もヨウとせるにや。書紀にも萬葉にも、ヨの假字にのみ用ひて、ユに用ひたる例なし。]
又一字をば、唯(タヾ)一音に用ひて、二音三音に通はし用ひたることなし。
- [宜(ゲ)をギともよみ、用(ヨ)をユともよむたぐひは、みなひがごとなり。]
又、入聲ノ字を用ひたることをさゝゝ無し。たゞオに意ノ字を用ひたるは、入聲なり。
- [是レは億ノ字の偏(ヘム)を省(ハブ)きたるものなり。古ヘは偏を省きて書ク例多し。此ノ事傳十之卷呉公(ムカデ)の下(トコロ)に委ク云べし。億憶などをも、書紀にオの假字に用ひたり。又意ノ字に億(オク)の音もあり、臆(オク)に通ふこともあれども、正音をおきて、傍音(カタハラノコヱ)を取ルべきにあらず。たゞ億の偏を省けるものとすべし。]
又いとまれに、シに色ノ字、カに甲ノ字、ブに服ノ字を書ることあり。これらは由(ヨシ)あり。そは必ズ下に其ノ韻の通音の連(ツヾ)きたる處にあり。
- [色ノ字は、人ノ名に色許(シコ)と連きたるにのみある、色の韻はキにして、許は其ノ通音なり。甲ノ字は、甲斐(カヒ)と連きたる言にのみ書る、甲(カフ)の韻はフにして、斐(ヒ)は其ノ通音なり。服ノ字は、地名伊服岐(イブキ)とあるのみなる、服(ブク)の韻はクにして、岐(キ)は其ノ通音なり。おほかたこれらにても、古ヘ人の假字づかひの、いと嚴(オゴソカ)なりしことをしるべし。]
此ノ外吉備(キビ)吉師(キシ)の吉ノ字あれども、國ノ名又姓(カバネ)なれば、正(マサ)しき假字の例とは、いさゝか異なり。
- [故に吉備も、歌には岐備(キビ)とかけり、凡て歌と訓ノ注とぞ、正(マサ)しき假字の例には有リける。]
さて又同音の中にも、其ノ言に隨(シタガ)ひて用フる假字異(コト)にして、各(オノヽヽ)定まれること多くあり。其例をいはゞ、
コの假字には、普(アマネ)く許(コ)古(コ)ノ二字を用ひたる中に、子(コ)には古ノ字をのみ書きて、許ノ字を書ることなく、[彦(ヒコ)壯士(ヲトコ)などのコも同じ。]
メの假字には、普(アマネ)く米(メ)賣(メ)ノ二字を用ひたる中に、女(メ)には賣(メ)ノ字をのみ書きて、米(メ)ノ字を書ることなく、[姫(ヒメ)處女(ヲトメ)などのメも同じ。]
キには、伎(キ)岐(キ)紀(キ)を普く用ひたる中に、木(キ)城(キ)には紀(キ)をのみ書て、伎(キ)岐(キ)をかゝず。
トには登(ト)斗(ト)刀(ト)を普く用ひたる中に、戸(ト)太(フト)問(トフ)のトには、斗(ト)刀(ト)をのみ書て、登(ト)をかゝず。
ミには美(ミ)微(ミ)を普く用ひたる中に、神(カミ)のミ木草の實(ミ)には、微(ミ)をのみ書て、美(ミ)を書(カヽ)ず。
モには毛(モ)母(モ)を普く用ひたる中に、妹(イモ)百(モモ)雲(クモ)などのモには、毛(モ)をのみ書て、母(モ)をかゝず。
ヒには、比(ヒ)肥(ヒ)を普く用ひたる中に、火(ヒ)には肥(ヒ)をのみ書て、比(ヒ)をかゝず。生(オヒ)のヒには、斐(ヒ)をのみ書て、比肥をかゝず。
ビには、備(ビ)毘(ビ)を用ひたる中に、彦(ヒコ)姫(ヒメ)のヒの濁リには、毘(ビ)をのみ書て、備(ビ)を書ず。
ケには、氣(ケ)祁(ケ)を用ひたる中に、別(ワケ)のケには、氣(ケ)をのみ書て、祁(ケ)を書ず。辭(コトバ)のケリのケには、祁(ケ)をのみ書て、氣(ケ)をかゝず。
ギには、藝(ギ)を普く用ひたるに、過(スギ)祷(ネギ)のギには、疑(ギ)ノ字をのみ書て、藝(ギ)を書ず。
ソには、曾(ソ)蘇(ソ)を用ひたる中に、虚空(ソラ)のソには、蘇(ソ)をのみ書て、曾をかゝず。
ヨには、余(ヨ)與(ヨ)用(ヨ)を用ひたる中に、自(ヨリ)の意のヨには、用(ヨ)をのみ書て、余(ヨ)與(ヨ)をかかず。
ヌには、奴(ヌ)怒(ヌ)を普く用ひたる中に、野(ヌ)角(ツヌ)忍(シヌブ)篠(シヌ)樂(タヌシ)など、後ノ世はノといふヌには、怒(ヌ)をのみ書て、奴(ヌ)をかゝず。
右は記中に同ジ音の數處(アマタトコロ)に出たるを驗(コヽロミ)て、此レ彼レ擧(アゲ)たるのみなり。此ノ類の定まり、なほ餘(ホカ)にも多(オホ)かり。此レは此ノ記のみならず、書紀萬葉などの假字にも、此ノ定まりほのゞゝ見えたれど、其(ソ)はいまだ遍(アマネ)くもえ驗(コヽロミ)ず。なほこまかに考ふべきことなり。然れども、此記の正しく精(クハ)しきには及ばざるものぞ。抑此ノ事は、人のいまだ得見(エミ)顯(アラハ)さぬことなるを、己(オノレ)始メて見得(ミエ)たるに、凡て古語を解(ト)く助(タスケ)となること、いと多きぞかし。
○ 二合の假字
こは人ノ名と地ノ名とのみにあり。
- 「アム」淹
- 淹知(アムチ)
- 「イニ」印
- 印惠(イニヱノ)命、印色之入日子(イニシキノイリビコノ)命
- 「イチ」壹
- 壹比韋(イチヒヰ)、壹師(イチシ)
- 「カグ」香
- 香山(カグヤマ)、香用比賣(カグヨヒメ)
- 「カゴ」香
- 香余理比賣(カゴヨリヒメ)、香坂王(カゴサカノミコ)
- 「グリ」群
- 平群(ヘグリ)
- 「サガ」相
- 相模(サガム)、相樂(サガラカ)
- 「サヌ」讃
- 讃岐(サヌキ)
- 「シキ」色
- 印色之入日子(イニシキノイリビコノ)命
- 「スク」宿
- 宿禰(スクネ)
- 「タニ」丹旦
- 丹波(タニハ)、旦波(タニハ)
- 「タギ」當
- 當麻(タギマ)
- 「ヂキ」直
- 阿直(アヂキ)
- 「ツク」筑竺
- 筑紫(ツクシ)、竺紫(ツクシ)
- 「ヅミ」曇
- 阿曇(アヅミ)
- 「ナニ」難
- 難波(ナニハ)
- 「ハヽ」
- 伯伎(ハヽキ)
- 「ハカ」博
- 博多(ハカタ)
- 「ホム」品
- 品遲部(ホムヂベ)、品夜和氣(ホムヤワケノ)命、品陀和氣(ホムダワケノ)命
- 「マツ」末
- 末羅(マツラ)
- 「ムク」目
- 高目郎女(コムクノイラツメ)
- 「ラカ」樂
- 相樂(サガラカ)
凡て古書地名に此ノ類いと多し。
○ 借字(カリモジ)
是も人ノ名と地ノ名とに多し。
- 「ウ」菟
- 「エ」江枝
- 「カ」鹿蚊
- 「キ」木寸
- 「ケ」毛
- 「コ」子
- 「サ」狹
- 「シ」師 [こはもと音なるを、やがて訓にもして、借字に用ひたるあり。師木(シキ)、百師木(モヽシキ)、味師(ウマシ)、時置師(トキオカシノ)神、秋津師比賣(アキヅシヒメ)、などの師ノ字是レなり。これらは、音の假字の例にはあらず、訓にて假字の例なり。]
- 「ス」巣洲酢
- 「セ」瀬
- 「タ」田手
- 「チ」道千乳
- 「ツ」津
- 「テ」手代
- 「ト」戸砥
- 「ナ」名
- 「ニ」丹
- 「ヌ」野沼
- 「ネ」根
- 「ハ」羽齒
- 「ヒ」日氷
- 「ヘ」戸
- 「ホ」穗大
- 「マ」間眞目
- 「ミ」見海御三
- 「メ」目
- 「モ」裳
- 「ヤ」屋八矢
- 「ユ」湯
- 「ヰ」井
- 「ヲ」尾小男
上ノ件の字ども、常に多く借字に用ひたり。但し此ノ字どもを書るは、皆借字なりといふにはあらず。正字なる處も多く、又正字とも借字とも、さだかに辨へがたきところも多かり。又借字は、此ノ字どもに限れるにもあらず。たゞ大かたを擧るのみなり。或人、借字も即チ假字なれば、別に借字といふことは、有ルべくもあらず、又古書の假字に、訓を用ひたることなしとも云べからず、といふは精(クハ)しからず。假字借字、いひもてゆけば同じことなれども、此記にも書紀にも、歌又訓注などに、訓を用ひたること一ツもなし。其(ソ)は正(マサ)しき假字の例に非るが故なり。此レをもて、借字は別に一種(ヒトクサ)なることを知ルべし。別に一種なるが故に、其ノ目(ナ)を立(タテ)て、借字(カリモジ)とは云り。
○ 二合の借字
- 「アナ」穴
- 「イク」活
- 「イチ」市
- 「イナ」稻
- 「イハ」石
- 「イヒ」飯
- 「イリ」入
- 「オシ」忍押
- 「カタ」方
- 「カネ」金
- 「カリ」刈
- 「クシ」櫛
- 「クヒ」杙咋
- 「クマ」熊
- 「クラ」倉
- 「サカ」坂酒
- 「シロ」代
- 「スキ」鋤
- 「ツチ」椎
- 「ツヌ」角
- 「トリ」鳥
- 「ハタ」幡
- 「フル」振
- 「マタ」俣
- 「マヘ」前
- 「ミヽ」耳
- 「モロ」諸
- 「ヨリ」依
- 「ワケ」別
- 「ヲリ」折
ことわり一音の借字と全(モハ)ら同じ。さて二合の借字、上件の外なほいと多かるを、今はたゞ、其中にあまた處に見えたるをえり出て、此レ彼レあぐるのみなり。
参考資料
- 本居宣長撰、倉野憲司校訂『古事記傳 (一)』(1940年、岩波文庫(ISBN:4-00-302196-7))