『かなづかい入門』斜め読み

公開 : 2008/07/22 ; 追記 : 2008/07/26 © 平頭通

なんか最近妙な新書が出廻つてゐるとの情報を得ましたので、一寸意見を記録しときます。

自論

先に簡単に自論を展開しておきます。先づ仮名遣の意味、之は同音の仮名を語によつて書分ける方法を言ひます。「柿」や「垣」をかなで書く時は、共に「かき」で問題無いのですが、「氏」と「蛆」との場合、「氏」は「うぢ」、「蛆」は「うじ」とかなで書分けます。此のやうな書分けの事を仮名遣と言ひます。

第二に、漢字仮名交じり文で書く場合、漢字で書かれる部分よりも、かなで書かれる部分のはうが仮名遣として重要になります。具体的には、テニヲハと呼ばれる助詞や助動詞と、動詞や形容詞の活用語尾とです。此の部分は漢字仮名交じり文を書く限り、必ずかなで書かれます。逆に名詞や活用語の語幹などは、通常漢字で書かれますので、かなで書く場合にしか仮名遣は問題にされません。正かなを批判する反対論者は必ずと言つていい程、名詞や活用語の語幹の仮名遣を突いて来ます。最低限漢字が読解できれば十分な部分です。

第三に、「現代仮名遣い」に対する当方の意見は、反論「現代仮名遣い」に書いておいたので、事前に目を通しておいて欲しいと思ひます。

各論

先づは「はじめに」から。

こんにちの日本社会全般の文字生活に、現代仮名遣は浸透し定着した。

ほうほう、定着して一般的に使用されてゐるから、「現代仮名遣い」は正しいんだとでも言ひたいのかね。

かれらの確信の最大の根拠は何かと言えば、それは学問的合理性である。

歴史的仮名遣が優れてゐると考へる人は、此の人に言はせれば、学問的合理性が支持の根拠になつてゐるんださうです。

歴史的仮名遣と現代仮名遣のどちらかに肩入れしようとするつもりは、ない。できるかぎり公平な立場でいたいと考える。

公平ねえ。で、さう書いた筆の先も乾かない内に「悪魔の規範――歴史的仮名遣の非実用性」ですか。嘘も大概にしたはうが宜しいんぢやないですか。

大体、今の世の中、正字正かな(所謂康煕字典体や歴史的仮名遣)の使ひ手はマイノリティに属するのは重々承知してゐる。一般的だ何だと数の上で遣られたら、負けるのは目に見えてゐる。だからこそ理論を固めて其の正しさを一つ一つ証明して正字正かなの有用性を主張しつつ、一般の理解を得ようと苦心してゐる。其処へ来て此のやうな内容の本を出して不当な非難を浴びせるのは如何なものかと。

一気に「あとがき」へ。

火災も自然の営みの一環なのだ、と。

曰く、国立公園の管理がゆき届き過ぎて、自然火災が発生しなくなり、森の生命力が奪はれたと。ふむふむ、ならば以下のやうに書きませう。其れ迄、自然の成長に任されて来た森林に、国の許可を受けた産廃業者がやつて来て、其の森林の所々を伐採して穴を掘り廃棄物を埋めて、お座なりに整備したやうなものだと。森林の周りに住む人は、環境破壊になるからと業者に文句を言つても、業者は国の許可を受けてやつてゐる事だからと責任逃れ、国に言つても盥回しで埒が飽かない、さうかうしてゐる内に、環境はどんどん悪化して行く。「現代仮名遣い」は決して自然の変化ではありません。内閣訓令や内閣告示を通して強制的に変化させられた日本語の表記であると断言できます。又、本書の例の侭でもいいでせう。国立公園の管理(「現代仮名遣い」の規定)のせゐで、森の生命力(日本語の自然な変化)が奪はれたと。著者の挙げた例は我々の主張にこそ相応しいつてものです。変化に合はせて規定を変へるんですか。いやいや逆でせう。規定で管理されてゐるから自然な変化が出来なくなるんですよ。

時間の経過とともに、個々の語のレベルで規則をすこしずつ変えざるをえないという宿命をもっている。一方は学問研究の進展を因とし、一方は発音と語源意識の変化を因とする。

書き言葉は蓄積されて残されて行く特徴があります。時を越えた意思の疎通をし易くするのであれば、語の表記は出来るだけ変化させないやうにするべきです。

そして、前者の変更は、タイムマシンにでも乗らないかぎり、現代語の運用者であるわれわれが、この目と耳で正解を確認できない。

ふむふむ、仮名遣として混同する或る語について昔の人に訊いて其の言葉を紙にでも書いて貰はなければ、正しい仮名遣は判らないとでも言ひたいんでせうか。如何にも表音主義者らしい物言ひだこと。途中迄しか遡れない語であれば、其の最古層の表記を採用すればいい事。態々タイムマシンに乗らなくても書かれた実績から仮名遣を決定すればいい丈です。

検索結果

一寸反対の意見を書いたら此の結果か。少くとも24日迄は検索できてゐたのは確認してゐる。25日には此の状況になつてゐた。ああ言ふ事を書いておけば、反対意見が出されるのは十分豫期できる事態だらう。なのにこんな手段に出るとは、開いた口が塞がらないな。自分で「公平な立場」つて宣言しておき乍、全然公平ぢやない事が明かになつたぞ。まあ少しの間は様子を見ておいてやる。ああ、其れと俺は此の本を定価で購入してゐる。お客様は大切にするもんだぞ、普通の商売なら。(平成廿年七月廿六日追記)

序にこんな意見も在ると云ふ意味でリンクを追加しておく。→書評

かなづかい入門でサイト内検索して出て来ないの何でかなあ。かなあ。(平成廿年七月廿七日追記)

雑感

此の本、「こいつやつぱり表音主義者か」と感じさせられる部分が随所に見られます。先に出した「タイムマシン」の件もさうです。此の人は其処までして語の「発音」を聞きたいのかと。語の本体は語意です。発音も表記も語の本体ではなく影でしかありません。そして、語の発音と表記との間には相互の対応関係しか存在しません。表記が発音の影の存在であるとか、話し言葉が言語の本体であるとか、此のやうな考へ方は誤つてゐます。其処の所を見誤らないやうに注意しないと、此の駄本の筆者のやうになつてしまひます。あはれなりけり。

元ネタ

『かなづかい入門――歴史的仮名遣VS現代仮名遣』(2008年、平凡社新書426)
isbn:978-4582854268

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