表音主義者の意見拝聴

公開 : 2005/11/20 © 平頭通

タカマサ氏の論

此で書けるやうになつたかどうか。巷で「表音主義批判」が流行つてゐるやうなので、茲でも少し書記しておかうと思ひます。

■保守派の方では、野口さんも指摘するとおり、漢字制限については、「戰後民主主義即ち日本社會主義のイデオロギー的要求に應へるべく考案された」といった、被害者意識さえある。■GHQの初期の改革方針が、リベラル左派的であったことは、たしかであるとしても、それがソ連など社会主義諸国の意向と無縁なことも事実であり、完全な「妄想」の域に属する(笑)。

事実として国語改革の運動は、明治の初期からあるもので、戦後民主主義や日本社会主義などのイデオロギーが要求に応じて考案されたものではありません。どちらかと云ふと、其のやうな主義主張を当時の表音主義者が巧く利用して、自己の陣営に取込む形で漢字制限に持つて行つたと云ふのが正解です。GHQの改革方針の中には確かに国字の羅馬字化も掲げられてはゐましたが、当時の日本人の識字率を知つて、早々に羅馬字化の方針を撤回してしまひました。大きな物に阿ねて、自分等の意見を巧みに通さうとしたのが表音主義者の遣口だつたのです。

タイプライタ云々はどうでせうか、和文タイプライタの業者は利用者からの要望があればどのやうな活字でも提供するやうな事を宣伝してゐたものです。特段和文タイプライタの利用に因つて「活字を有限の数に限定」される事はないと判断します。現今の有限と言へば、文字コードになりますが、賢い人ならば文字集合と文字実装の相違でピンと来る事が出来る筈です。

■外国人むけのニホンゴ表記から、漢字をはずすのは当然だ。中国大陸・台湾など、特殊な言語空間からの来日者むけに、漢字をのこしておくといった「いいわけ」は、説得力がないからだ(日中台で、漢字表記には、ミゾがあり、「生兵法はケガのもと」だ)。

文字を使ふ言語は色々と在りますが、英語も日本語も、其の他の殆どの言語表記は、他の言語表記から文字を借用して表記してゐる事は事実として認めておくはうが良いと思ひます。諺文も元を正せば蒙古のパスパ文字から派生した文字ですし、其のパスパ文字も、西蔵の文字から派生した梵字系統の文字となります。日本語の場合、漢字を輸入する際、同時に漢文も多数輸入した為、其の文字を読みこなす事が必要になりました。漢籍仏典を日本語で読みこなす智慧の一つとして、漢字の字訓が発達したのです。と同時に、漢字其の物の語彙、詰まり漢語由来の字音語も日本語の一部として活用できるやうに日本語自体が改良されて来て、現在の漢字仮名交じり文が成立したのです。日本人が漢字を使ふのは、別に支那人に読んで貰ふ為でもなく、日本人が自国語を読んで理解する為に存在するのです。若し仮に国語表記に羅馬字を採用したからと言つても、其の文章を米国人に読んで貰ふ為に採用するわけぢやないでせう。同じ事です。

■せっかく、より発音実態にちかい「ゆう」となりかけたのに、「言う」という漢字表記にひきずられて、「いう」と 語源主義=反動が生じたことがわかる。

此の件には経緯があつたやうな。戦前に臨時國語調査會が答申した「改定假名遣案」に対して、国語学者の山田孝雄博士が、「文部省の改定假名遣案を論ず」で批判を展開したのですが、其の「第十」の項目に、「言ふ」に附いての言及があります。此のやうな批判が戦前に既に出されてゐたので、「現代かなづかい」制定の際、批判回避の意味合で「いう」に決定されたと見るのが良いと思ふのですがね。因みに山田博士は「語源主義」で「ゆう」を批判したのではなく、四段活用動詞の語幹が「い」と「ゆ」に分れると不規則になる事を問題にされてゐます。仮名遣の事を言ふのならば、所載の『假名遣の歴史』は必読です。

■「ローマ字がきは面倒だ」というセリフをはいている連中の大半は、かな入力なんぞせず、毎日ローマ字入力しておる(笑)。

羅馬字入力の件ですが、真逆漢字一つ一つに固有の釦を配列した鍵盤やキーボードを作成するわけにも行かないと思ひます。まあ、其れに一番近い方式に漢直(T-CODE, TUT-CODE)と呼ばれる入力メソッドも在りますが、結構敷居が高いと思ふのです。羅馬字入力に対して訓令式だとかヘボン式だとか書いてゐるやうですが、実際は其のどちらでも無く、"JIS X 4063"と呼ばれるJIS規格に収められてゐる方式であるとするのが正しい表現になります。此の辺りの事情は、少しネットで調べれば判る事です。私自身は、羅馬字入力でもカナ入力でも遣りますが、結局は漢字仮名交じり文で文章を作成する為の操作方法の一つでしかありません。何も第三者に読んで貰ふ為の文章を羅馬字で表記する為に羅馬字入力を選んでゐるわけぢやありません。どうも現今の表音主義者には其の辺りの分別が附かないやうで、どうしたものやらと思ふ次第です。

漢字字訓不使用について

件の人は、どう云ふ事情か知りませんが字訓不使用の文章を綴つてゐます。漢字の字訓を使はない文章ですと、同じ漢字仮名交じり文を綴つてゐても、状況は随分と変つて来ます。茲では、其の点を考へてみます。

漢字は、表語文字になります。或る特定の語を表す事で、其の語の字義や字音に対応させる事が出来ます。日本語には更に字訓が在ります。字訓は一般的に和語を漢字で表す為に存在すると考へられてゐます。併し乍、和語を漢字で表現する以外に、或る漢字が表す字義と字体を関聯附ける役割をも賦与されてゐると考へてゐます。字音は大体漢字二文字で構成される漢語に使用されるものですが、漢字の字訓が判れば其の漢語の大体の意味が把握できるわけです。此が現在の一般的な漢字仮名交じり文です。

では字訓を使はない場合はどうなる事でせう。漢字に字義と字音が在るのは変りません。違ふのは、漢字字体に対する端的な意味を表す為の字訓が無い事です。同じ漢字二字で構成される漢語でも、字訓で読む事が出来ないが為に、漢語其の物を記憶しないと漢語の意味が掴めないと云ふ結果になります。発音が判れば通じると反論があるかも知れませんが、漢語は同音語の嵐です。手懸りにはなり得ますが発音だけでは通じない場合が多々あります。幾ら漢字の発音が判つても、字義が判らなければ其の時点で読解く事が不可能になつてしまひます。之ではカタカナ語と変りありません。此のやうな漢字の遣ひ方をする限り、表記する人間に取つては漢字を国語の外から来た外来語としての扱ひしかしてゐないのだと、私は判断します。其れだからこそ、支那人に読んで貰ふ為などと簡単に書けるのだと思ふのです。結局、なんだかんだ言つて表音主義者は漢字を邪魔者にしてゐるだけなんです。

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