仮名遣の歴史 (定家仮名遣)

公開 : 2005/10/27 © 平頭通

藤原定家

茲では定家仮名遣について述べて行かうと思つてゐます。

藤原定家(1162~1241)は、平安時代末期から鎌倉時代を生きた歌人です。新古今和歌集の撰者となり、小倉百人一首の撰者でもあります。和歌についての知識も豊富で、過去の歌集等にも精通してゐたやうです。小倉百人一首は、過去の歌人百人に対して夫々一首づつの和歌を収録した歌集であり、安土桃山時代に葡萄牙から輸入された加留多の体裁を真似て、上の句と下の句とを合せる二百枚の歌留多が発明されました。現在では日本の正月の定番になつてゐますが、歴史的には日本の和歌と西洋の加留多が合さつた正に和洋折衷の娯楽であると言切る事が可能です。閑話休題。

定家は、色々な書物を読む機会が多かつたせゐか、言葉に対して敏感な面があつたやうです。鎌倉時代には京洛でも既にイロハ四十七文字の内にすら発音の紛れる仮名が出始めてゐました。当時、世間では「い」と「ゐ」や「お」と「を」等の仮名が全く同じ仮名のやうに書表されてゐる状況になつてゐたやうです。イロハ四十七文字は、当時既に確定してゐましたから、「旧草子」に親しみのあつた定家からして見れば、言葉の乱れと受止められるのも致し方の無い話です。さうして、後世『下官集』と呼ばれる一冊の冊子が定家の手に成立つたのだと考へられてゐます。

『下官集』

現在、『下官集』は、藤原定家が書いたものだと言はれてゐますが、実物には定家が書いたとは明記されてはゐません。『國語學大系 第六卷』に依ると、「靈山法印定圓筆本」と呼ばれる一本と、「新大納言(爲氏)自筆本」と呼ばれる別の一本が在るとされ、又、『假名遣の歴史』では『人丸秘抄』にも掲載されてあると言はれてゐます。内容としては、語に依つてどの仮名で書かれるべきかと云ふ仮名遣に関する部分や、和歌を書く時の注意点や、『古今和歌集』に掲載の和歌の語句を引いての音読の際の高低のアクセントを例示する等、凡そ和歌に対する注意書きに終始してゐるのが理解できます。『下官集』と云ふ題名も当初から在るものでは無く、「此下官付」とか、「右枚下官用」とかと書かれてある部分を採つて冊子の名称にしただけのものです。

茲では『下官集』に書かれた仮名遣に限定して話を進めて行く事にします。『下官集』には、「一、嫌文字事」と題して、以下のやうな事が書かれてゐます。

他人不然又先達強無此事、只愚意分別之極僻事也。親疎老少一人無同心之人最所謂道理。況且當世之人所書文字之狼藉過于古人之所用來、心中恨之。

詰り、「昔の人は確りと書分けてゐた仮名を今でも書分けるべきだが、現在では全く混同してしまつてゐる。私は残念に思つてゐる」と要約できると思ひます。又、仮名遣を示した最後の所では、以下のやうな事を書いてゐます。

右事非師説、只發自愚意。見舊草子了見之。

「之は師匠から教はつたのでは無く、全く自分自身の発案である。『旧草子』を見て之を見附けたのだ」と書いてゐます。定家は自分が此の事実の発見者であると言ひたいのでせう。当時は既に「お」と「を」との間や「え」と「へ」と「ゑ」との間や「ひ」と「ゐ」と「い」との間で発音の混乱が生じてゐた事が『下官集』の項目分けや収録語で理解できます。定家は此の混乱を表記の上で正さうとして『下官集』を著したと云ふ訣です。

次に、仮名遣の部分で「靈山法印定圓筆本」と「新大納言(爲氏)自筆本」との内容比較をしてみたいと思ひます。見比べて一目瞭然ですが、「靈山法印定圓筆本」のはうが遥かに内容が充実してゐます。特に「新大納言(爲氏)自筆本」には出て来ない項目として「ほ」、「ふ」、「一 」等が挙げられますが、先に説明した「右事非師説、云々」の部分より以降に足し加へられてゐるのが判りますから、之は後代に何らかの意図で附加された事項であらうと考へられます。又、「靈山法印定圓筆本」では、「(今入)」との註記が加へられた語も幾つか見受けられます。其の場合、「(今入)」以降に列挙された語は、「新大納言(爲氏)自筆本」には認める事が出来ませんから、之についても、後代の附加であらうと考へる事は可能でせう。諸本によつて異同があるのは、其の来歴の相違から来るものであると判断する事は出来ますが、どれが本来の定家が書記したものに近いのかを夫々の間で云々するのは控へたはうが宜しいのではないかと思ひます。

実際の書物には「を」「お」「え」「へ」「ゑ」「ひ」「ゐ」「い」「ほ」「ふ」「一 」等の各項目毎に唯単に語を列挙して行くだけの体裁ですので、其の語がどのやうな意味の語なのかとか、何処に其の語が出てゐるのかの典拠とかは一切省かれてゐます。唯、判るのは何らかの「旧草子」を元にしたと云ふだけの事です。

定家仮名遣

愈々、定家仮名遣の中身に這入ります。藤原定家は、昔の人が書残した書物で遣はれてゐる仮名に比べて、現在の人達が使ふ仮名の乱れてゐる事を残念に思つて、仮名の遣ひ方の手引書を書きました。定家は、初めてイロハ四十七文字を語に拠つて書分ける事を考へ出したのです。原理として現在判明してゐる事は、「を」と「お」の書分けが、当時の京洛で使用されてゐたアクセントの高低で判断されてゐたと云ふ事だけです。此の事実は、国語学者の大野晋さんが気附いて論文で発表されてゐます。又、アクセントの件は、後述の行阿も理解してゐたやうです。

定家は「旧草子」を元にして仮名遣を決定したとしてゐますが、当時は既にワ行の音とア行の音の混同も激しくなつてをりましたし、ハ行転呼音も発生してをりました。どれだけ信頼の置ける「旧草子」を活用されたのか、現在では推測が出来ません。唯、結果を見て混乱した後のものを採用してしまつたのではないかと思はれるものも幾らか見受けられるのも事実です。以下に其の点を列記しておかうと思ひます。

定家仮名遣と正仮名遣の比較
定家仮名遣正書法正仮名遣
をとは山音羽山おとは山
風のをと風の音風のおと
をくる送るおくる
人のをこる人の怒る人のおこる
をろか愚かおろか
おしむ惜しむをしむ
おきの葉荻の葉をぎの葉
花をおる花を折る花ををる
おりふし折節をりふし
おひ老いおい
をひ
風さえ風さへ風さへ
かえての木楓の木かへでの木
えふ醉ふゑふ(葉の字音はエフ)
花のえ花の繪花のゑ
そなえり供へりそなへり
草木をうへをく草木を植ゑ置く草木をうゑおく
ことのゆへ事の故ことのゆゑ
栢[かへ]栢[かえ(かや)]
たへなり絶えなりたえなり
ゆへゆゑ
さへけき清けきさえけき(さやけき)
ききたへ聞き絶えききたえ
うへにをく上に置くうへにおく
詠[ゑい朗詠]詠(エイ)詠[えい朗詠]
ゆくゑ行方ゆくへ
おひぬれは老いぬればおいぬれば
つゐに[遂に色にそいてぬへき]遂に色にぞ出でぬべきつひに[遂に 云々]
池のいゐいけ
よゐのま宵の間よひのま
おひ[ゐ]ぬれは老いぬればおいぬれば
かほる薫・香・馨かをる
さほつ竿・棹さを(つ)
しほるゝ萎るゝしをるゝ

語が明確でない例もありますが、通常行はれる表記を想定して其の仮名遣との相違を見られるやうにしました。「お」と「を」との書分けで正かなとの相違が出るのは、依つて来る原理の相違から来るものですので致し方ないとしても、「ゆへ(故)」や「かほる(香)」等の部分にすら当時の語の混乱が反映されてしまつたものも少からず見受けられます。

又、「靈山法印定圓筆本」で重要な点は「一 」として纏められてある部分に、バ行の仮名とマ行の仮名との混乱を指摘してゐる点でせう。此の件は現在でも「寒い」を「さむい」とか「さぶい」とか言ふ事があるのですが、当時から之と同様の事象のあつた事の証左となるものと理解できます。

定家が発見した事の重要性は、世間一般での書き方に混乱のある語に関して、一語一語について此の語はかう書くべきであるとして、冊子に纏めて公表した事にあります。事実上、仮名遣の始りは茲からになります。唯、頼りとした「旧草子」に既に誤りが紛れ込んでしまつてゐた点と、「お」「を」の書分けを当時のアクセントの高低で行つてしまつた点が別の意味で混乱を招いてしまひました。

以後、此の定家仮名遣は、和歌や俳諧などの歌道に用ゐられるべき仮名遣として定着して行きました。

『假名文字遣』

定家仮名遣の普及の立役者は、鎌倉時代の僧の行阿(源知行)になります。行阿は、『假名文字遣』と云ふ本を書き、仮名を遣ひ分ける必要のある語を大幅に附加へ、更に夫々の語の意味を明確にした点で、大きな業績を上げてゐます。茲では後世に問題となつた部分を少しだけ指摘しておきます。

『假名文字遣』の序文には、以下のやうな事が書かれてあります。

京極中納言 (定家卿) 家集拾遺愚草の清書を祖父河内前司 (干時大炊助) 親行に誂申されける時親行申て云 を お え ゑ へ い ゐ ひ 等の文字の聲かよひたる誤あるによりて其字の見わきかたき事在之

茲には親行と云ふ人が発音の混同してゐる状態があるから文字が見分け難くなつてゐる事を定家に指摘した旨の事が書かれてあります。現在認められてゐる定家仮名遣の創始は、藤原定家の『下官集』にあるとされるのですが、之は『下官集』が現在にまで残されてあるから此のやうに呼ばれるのであつて、若し親行が仮名遣を示唆するやうな何らかの冊子を残してゐたのならば、之は定家仮名遣ではなく「親行仮名遣」となつた事でせう。併し乍ら、現在まで『假名文字遣』の序文に依る記載以外に親行が仮名遣について書残した文書は見附つてゐません。

其の後、「お」と「を」との書分けについては、室町時代の頃には京洛でもアクセントの変化が生じてしまつた為、事実上、当初のやうな書分けが出来なくなつてしまひました。

定家仮名遣は、『下官集』や『人丸秘抄』や『假名文字遣』の普及に依つて、主に和歌や俳諧などの歌道の分野で使用されて行きました。此の状態は江戸時代中期の元禄に契沖が復古仮名遣の道を開くまで続きました。現在でも和歌に定家仮名遣を採用する人はゐるかも知れません。

仮名遣の起り

仮名遣は、藤原定家が発案したものです。併し、拠り所とした「旧草子」に既に誤りが混入してゐた為、誤つた判断を下した語が在るのは、誠に遺憾な事です。

次回は、復古仮名遣に移ります。

参考資料

関聯頁

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仮名遣の歴史 (仮名の成立)
次章
仮名遣の歴史 (復古仮名遣)
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