『漢和辞典に訊け!』書評

公開 : 2009/01/10 © 平頭通

元漢和辞典編集者の円満字二郎さんが書いた漢和辞典利用手引きのやうな新書です。普段見慣れた漢字を音訓索引を使つて検索し、其の漢字の隠れた意味を掘起すやうな話題から始つて、主たる漢和辞典を列挙して夫々の漢和辞典の特徴を示し紹介して締め括ると言つた感じで、漢和辞典を使ふ楽しみを教へて呉れるやうな内容になつてゐます。

内容は多岐に亘つてゐて、漢字の音訓、字義、字体と異体字、字源、部首、画数等々、話の繋がりを持つて網羅的に紹介してゐるので、読んでゐて素直に這入つて来ると思ひます。其の中で、意外と一般の人が見落してゐる、と言ふか普段漢字を目にしてゐても意識してゐないんではないかと思はれる事が紹介されてゐました。

円満字君ね、漢字には「形・音・義」という三つの要素があるんだよ……

言はれてみればああ成る程と思はれる内容ですが、普段其処まで意識して漢字や言葉を使つてゐる人は稀なのではないかと思はれます。「形」は字形の事、目に見える漢字です。「音」は字音の事、耳に聞える漢字です。「義」は字義の事、字形や字音から導き出される漢字の意味です。此の「形・音・義」が一体となつて漢字が漢字として使へるやうになる訣ですね。さう云ふ点を改めて意識させる所に此の新書の存在意義が在るんだと感じた次第です。

後は、他の書籍からの引用に基づいて一寸した問答を試みたいと思ひます。

それから時を経て、近代的な漢和辞典の嚆矢は、熟語も収めた三省堂の『漢和大字典』(1903) であるとされる。しかし、この字書は漢籍を対象とした内容となっており、国字や国訓の類は付録に載せられるだけであった。喩えるならば木に竹を接いだような体裁であり、真に日本人の使ってきた漢字を知るための字書というものからは遠い存在となっている。

之は笹原さんの『訓読みのはなし』からの引用です。此の新書は、漢字の訓読みに焦点を当て、日本や朝鮮や越南や本家支那の漢字の用法を事例を交へて解説した所謂薀蓄本です。ですので、読み進めて行くと「どうだ俺はこんな事も知つてゐるんだぞ」と云ふ感情が伝はつて来る気がして一寸疲れて来る事があつたりなかつたり。話題が一旦終了した所に畳掛けるやうにして別の話題を被せて来る所なんかには、特に表れてゐるかも知れません。併し乍、様々な点で示唆的な部分も在り勉強になります。

扨、引用の件に移ります。「木に竹を接ぐ」とは、異質な物同士を繋ぎ合せる事から、調和が取れてゐない事を喩へてゐるのですが、此の文脈では、異質な物同士を唯単に繋いでゐるがために使ひ辛くなつてしまつたとでも言ひたいやうに受取れます。又、漢和辞典で国字や国訓を調べたいと云ふ一般的要望があるのが判ると思ひます。では、之に対して円満字さんはどう応へてゐるでせう。

漢和辞典とは漢字の辞典であり、漢字とは中国語を書き表すために発明された文字だ。

とすれば、漢和辞典が取り扱う熟語も、古い時代の中国語として存在するものが基本であって、日本で生れた熟語や、近代になってから造り出された熟語が手薄になるのも、あながち、おかしな話ではないだろう。

つまり、漢和辞典が誕生したとき、その読者としては漢詩を作ったり漢文を読んだりするような明治の教養人が想定されていた、ということだ。

詰りですね、漢和辞典の本来的な使用目的は、日本人が詩經や大學や中庸や史記や杜甫や李白や白樂天や論語等の漢文を読み解いたり、自ら漢詩を作成したりする事に在る訣なのです。漢文を読むのに国字は要りませんし、国訓に示される字義で漢字を使つても漢文たり得ません。ならば、附録扱ひでも十分事足りると判断できます。勘違ひしてはいけないのは、日本語を調べるのに漢和辞典が在るのではないと云ふ事です。抑も英語を日本語に訳すのが英和辞典ならば、漢和辞典が漢語を日本語に訳す為に存在する事は理解できると思ひます。

とは言ひつつも、漢和辞典は漢字を説明した字引でもある訣ですから、日本での漢字の用法も必要に応じて掲載しておく場合もあるのでせう。最近では、日本語用の漢字辞典も出てゐます。

もう一丁。今度は「現代仮名遣」擁護派の書いた『かなづかい入門』のあとがきからの引用です。

前者の変更は、タイムマシンにでも乗らないかぎり、現代語の運用者であるわれわれが、この目とこの耳で正解を確認できない。

此処で言ふ「前者」とは、歴史的仮名遣の事を指して呼んでゐます。別に歴史的仮名遣を修正するのにタイムマシンなんかに乗らずとも、古文献の記載に基づいて修正して行けばいい話です。ですが、古い時代の日本語の音声が本当に現代人の耳にちやんと聞えるのかどうか。円満字さんの意見を聞いてみませう。

ことばは、時の流れとともに変わっていくものだ。あることばの意味や用法が変化するだけでなく、発音そのものも、変わっていく。もしタイムスリップして紫式部に会うことができたとしても、彼女の日本語を、ぼくたちは聴き取ることすらできないだろう。

流石は漢和辞典の編纂に携つた丈あります。上古音・中古音・呉音・漢音・唐音・北京語・広東語云々、漢字の字音を取つて見た丈でも時代と地域で様々な変化があります。其のやうな事実を事実として把握した上で、「聴き取ることすらできないだろう」と言つてゐる訣です。表音主義の人は音を其の侭文字に写せると思つて書いたのでせうが、事はそんなに易しくはないと云ふことを理解すべきです。円満字さんの一本勝ち。

まあ色々書いて来ましたが、漢字を之から勉強しなければならない中高生や、漢字や文字に興味の有る人や、漢和辞典を引いて遊びたい人にはお薦めの新書です。

関聯頁

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