字音仮名遣の変遷

公開 : 2006/09/05 ; 改訂 : 2006/10/28 © 平頭通

茲では江戸時代から終戦を挟んで現在迄の字音仮名遣を、変化のあつたものを中心に見て行きたいと思ひます。資料としては、江戸時代の代表として、文雄(もんのう)の『磨光韻鏡』、宣長大人の『字音假字用格』、明治時代の代表として『言海』『増補 字源』、戦前の代表として「現代かなづかい」、現在の代表として『岩波国語辞典』『新字源』『新旧かなづかい便覧』を夫々使ふ事にします。

茲に出した漢字の一覧は飽く迄も一例に過ぎません。文字コードで表現できる漢字にのみ限定してゐますが、幾つか漏れもあるかと思ひます。

合拗音に関する字音

き(くゐ)
軌 帰 歸 皈 貴 匱 櫃 簣 饋 鬼 愧 餽 揮 輝 暉 危 詭 跪 毀 燬 卉 虫 戯 戲 虧 麾 徽 馗 逵 喟
ぎ(ぐゐ)
偽 僞 匱 櫃 簣 饋 魏 巍
きやう(くゐやう)
兄 况 況 狂 匡 筐 筺
きよく(くゐよく)
きん(くゐん)
菌 箘 麕 窘 箟
け(くゑ)
化 怪 恠 花 華 嘩 譁 挂 卦 掛 褂
げ(ぐゑ)
外 華
けい(くゑい)
兄 蛍 螢 冂 冏 炯 烱 迥 絅・圭 奎 桂 珪 畦 掛 袿 閨 鮭 恵 惠 慧 携 攜 蹶 罫
けき(くゑき)
闃 鵙 鴃 洫
けち(くゑち)
けつ(くゑつ)
穴 血 决 抉 決 缺 訣 鴃 厥 獗 蕨 闕 蹶 譎
げつ(ぐゑつ)
けん(くゑん)
犬 券 拳 劵 眷 巻 卷 倦 惓 捲 綣 蜷 圏 圈 娟 涓 鵑 羂 喧 暄 萱 諠 勧 勸 権 權 讙 顴 県 縣 懸 玄 眩 衒 丱 絢 煖 夐
げん(ぐゑん)
幻 玄 眩 衒 鉉 還 元 阮 芫 原 源 愿 拳 狠 患

合拗音は、現在では「くわ」「ぐわ」の二つが知られてゐます。以前は其の外にも「くゐ」「ぐゐ」「くゑ」「ぐゑ」の四つが在つた事が知られてゐますが、現在では「き」「ぎ」「け」「げ」に統合されてしまつてゐます。一往、理論的には「くを」「ぐを」も在つてもをかしくないのですが、過去の記録からは抽出できません。

統合されてしまつた字音の内、「くゑ」に附いては、江戸時代の学僧だつた契沖が、其の著書『和字正濫鈔』で、「法華經 ほくゑきやう」(中下のゑ)と記されてゐる通り、契沖自身は「くゑ」の字音を認めてゐたやうです。

其の後、本居宣長の著書『字音假字用格』では、合拗音の字音を「くわ」「ぐわ」のみを認めて、其の他の「くゐ」「ぐゐ」「くゑ」「ぐゑ」を全て「き」「ぎ」「け」「げ」に統合してしまひました。ですので、宣長大人の仮名遣では、法華経は「ほけきやう」になります。恐らく宣長大人の時代には「くゐ」「ぐゐ」「くゑ」「ぐゑ」の音は聞分けが出来ない状況だつたのだと思ひます。ですので、其の当時、発音で区別されてゐた「くわ」「ぐわ」丈を残して、外は統合してしまつたのだらうと思ふのです。宣長大人以降現在まで、「くわ」「ぐわ」以外の合拗音の字音仮名遣は、学術的には取上げられる事もあるでせうが、一般的には使用されてはゐません。

『字音假字用格』では、「然ルニ此図中ノ音ハわ行(割註略)ノ第二位 くわ くわう くわい くわん くわつ くわく。ゐ行ノ すゐ つゐ るゐ (割註略)ワヅカニ是レラノミ本音ノマヽニ呼テ餘ハ悉ク直音ニ転ゼリ(二十二ウ)」として、ワ行の拗音の字音を「第三会図」に基づいて規定しました。引用を見て判る通り、「くゐ」や「くゑ」の字音は、直音に変化して無くなつてしまつたとされてゐます。(2006/10/28追記)

上記一覧に、合拗音に類別される漢字を示しておきます。此の中で、「缺(くゑつ)」と「阮(ぐゑん)」との字音が不明確です。一往「缺」は、音符の「夬」と、同じ意味の字の「闕」とから類推して「くゑつ」としました。「阮」の場合は、音符の「元」と、越南漢字音の「グェン」から類推して「ぐゑん」としました。又『広韻』では「くゑい」の字音が更に二つに分類されるやうです。仮に「・」の左右で其の二つの漢字群を分けておきます。

止摂合転に関する字音

すい(すゐ)
水 推 吹 炊 衰 榱 垂 埀 捶 睡 陲 錘 出 祟 彗 忰 悴 萃 粋 粹 瘁 翆 翠 酔 醉 膵 遂 燧 隧 邃 帥 率 隹 椎 誰 錐 騅 雖 夊 綏 揣 穂 穗 剤 劑 觜 髄 髓
ずい(ずゐ)
随 隨 髄 髓 隋 蕊 蘂 蕋 瑞 惴 遂 隧 痿 遺
つい(つゐ)
対 對 追 槌 縋 鎚 堆 椎 隊 隧 墜 錘
ゆい(ゆゐ)
遺 由 唯 惟 維
るい(るゐ)
類 塁 壘 累 瘰 縲 耒 誄 泪 涙 羸

「止摂合転」と云ふのは、『韻鏡』で言ふ処の「内転第五合」「内転第七合」に分類される漢字群を言ひます。平水韻では「○上平04支」「●上声04紙」「●去声04ゥ」の三つに分類されます。其の中に「すい」「ずい」「つい」「ゆい」「るい」の五つの字音の漢字が分類されてゐます。

宣長大人は、其の著書『字音假字用格』(安永4年、1775年)で、此の「止摂合転」に分類される漢字群の字音を「すゐ」「ずゐ」「つゐ」「ゆゐ」「るゐ」に規定しました。本書を確認した訣ではありませんので、明確な理由が判りません。其れより一寸前に、文雄が『磨光韻鏡』(延享元年、1744年)を刊行したのですが、其処では「すい」「ずい」「つい」「ゆい」「るい」とされてゐました。宣長大人が字音の表記を決定してしまつたので、『磨光韻鏡』の三浦道斎校訂本(安政4年、1857年)には、「すゐ」「ずゐ」「つゐ」「ゆゐ」「るゐ」の仮名遣が採用されたやうです。

『字音假字用格』では、「すゐ」「つゐ」「るゐ」の各字音をワ行の拗音として理解してゐます。其処から発展して、「此中ニゆゐト云音ハ実ハ有マジキ例ナルコト上ノ図ノ如シ(五十三オ)」と説明します。結果的に、呉音に「ゆゐ」の字音が在る事を巧く説明できなくなりました。(2006/10/28追記)

明治時代に這入つてから、止摂合転の仮名遣がどうなつたかと言ふと、『言海』を見ても、『増補 字源』を見ても、「すゐ」「ずゐ」「つゐ」「ゆゐ」「るゐ」の仮名遣を採用してゐたのが判ります。完全に宣長大人の仮名遣が浸透してゐたやうです。

戦前の状況は、昭和21年に制定された「現代かなづかい」の中から抽出します。水道(スヰダウ)、推察(スヰサツ)、炊事(スヰジ)、衰弱(スヰジヤク)、随分(ズヰブン)、一対(イツツヰ)、遺言(ユヰゴン)、親類(シンルヰ)と八つの漢字熟語が示されてゐます。此の中に「すゐ」「ずゐ」「つゐ」「ゆゐ」「るゐ」の仮名遣が全て網羅されてゐます。当時も此のやうな仮名遣が一般に流通してゐた事が伺ひ知れます。

戦後は、「現代かなづかい」全盛の時代ですが、古典籍等の訓点資料等に基づいた仮名遣の修正も色々と行はれて来ました。戦前は「用ひる」が一般的だつた仮名遣が実は「用ゐる」が正しかつた等、色々な発見があつたやうです。止摂合転の仮名遣の場合は、満田新造博士や大矢透博士の戦前の論文発表に基づき、「すい」「ずい」「つい」「ゆい」「るい」になる仮名遣が正しいと云ふのが学界での定説になつてゐます。併し乍、「くゐ」の仮名遣丈は昔の表記に存在してゐたさうです。「合拗音に関する字音」を参照して下さい。戦後に刊行された字引は全て、此の修正に基づいて「すい」「ずい」「つい」「ゆい」「るい」の仮名遣を採用してゐます。

上記一覧の中に、「膵(すい)」の字が在りますが、之は日本で作成された国字です。字音のみしか在りませんが、元より正式な支那語の音ではありません。一往、音符として「萃」の字を使つてゐるのでせうから、仮に平水韻の「●去声04ゥ」に分類しておきます。

豪韻の唇音に関する字音

ほう(はう)
呆 保 堡 葆 褓 褒 襃 報 宝 寶 寳 瀑
ぼう(ばう)
冒 帽 瑁 暴 瀑 呆 毛 旄 耗 耄 髦
もう(まう)
毛 旄 耗 耄 髦

「豪韻の唇音」と云ふのは、『韻鏡』で言ふ処の「外転第二十五開」に分類される漢字群の中の唇音の部分の漢字群を言ひます。平水韻では、「○下平04豪」「●上声19皓」「●去声20号」の三つに分類されます。其の中の唇音に、「ほう」「ぼう」「もう」の三つの字音が分類されてゐます。

先づ、江戸時代です。文雄の『磨光韻鏡』では、呉音や漢音の区別無く「はう」「ばう」「まう」の字音を採用してをります。之は、他の舌音(たう)、牙音(かう)、歯音(さう)、喉音(あう)、半舌音(らう)等と同じ論理に基づいて唇音の仮名遣を決定したものと考へられます。豪韻は、宣長大人の『字音假字用格』でも文雄の説と同じく呉音、漢音共にアウ韻を採用してゐました。又、白井寛陰の『音韻假字用例』(万延元年、1860年)では、呉音オウ韻、漢音アウ韻を採用しました。宣長大人の説を、白井寛陰が批判した形になります。

『字音假字用格』での説を引用しておきます。「「はう」[豪] 保 褒 裒 宝 報 袍 抱 暴・毛 耄 冒 帽(毛以下四字漢ナリ呉ハまう)(四十九オ)」 蛇足ですが、「抱」と「袍」はどうしませう。「抱」は「●上声19皓」で、「袍」は「○下平04豪」なので、明かに豪韻なのですが、どの字引を見ても字音仮名遣は「はう」を採用してゐます。(2006/10/28追記)

明治時代に這入つて、大槻文彦の『言海』ではどうかと言ふと、報恩が「はうおん」、褒美を「はうび」、寶祚を「はうそ」、暴徒を「ばうと」、毛頭が「まうとう」、又、呉音の代表として、號令を「がうれい」、道路を「だうろ」と全てアウ韻で統一されてゐます。宣長大人の説を採つたのが判ります。『増補 字源』ではどうかと言ふと、報を「ハウ・ホウ」とし、報恩が「ハウオン」、襃を「ハウ・ホウ」とし、襃美が「ハウビ」、毛を「バウ・モウ、通音マウ」とし、毛頭を通音の「マウトウ」、號を「カウ・ゴウ、通音ガウ」とし、號令が「ガウレイ」、道を「タウ・ドウ、通音ダウ」とし、道路が「ダウロ」となるやうな具合です。親字の字音は、白井寛陰の説を採りつつも、熟語の振り仮名は通音(慣用音)での記載で宣長大人の説を踏襲してゐる形になります。

戦前の状況は明治の頃と変りなかつたと思ひます。因みに、昭和21年の「現代かなづかい」では、報告(ハウコク)、褒美(ハウビ)、國宝(コクハウ)、暴動(バウドウ)、毛髮(マウハツ)、番号(バンガウ)、道路(ダウロ)と、全てアウ韻で統一されてゐます。

戦後はどうでせう。先づ、『岩波国語辞典』です。報・褒・宝(寶)は全て「ホウ」、暴は「ボウ・バク」、毛は「モウ」、号は「ガウ」、道は「ダウ」とされてゐます。「豪韻の唇音」は新説のオウ韻を採用し、唇音以外は、宣長大人の説を採用したやうです。次に『新旧かなづかい便覧』です。呆・宝・堡・報・褒は「ホウ」、冒・帽・暴は「ボウ」、毛・耗は「モウ」、号は「ガウ」、道は「ダウ」とされ、図らずも『岩波国語辞典』と同じ結果となりました。次に『新字源』では、報を「ハウ」とし、報酬が「はうしう」、褒を「ハウ(漢)」とし、褒美が「はうび」、宝を「ハウ(漢)・ホウ(呉)」とし、宝祚が「はうそ」、暴を「バウ(呉)」とし、暴徒が「ばうと」、毛を「バウ(漢)・モウ(呉)・マウ(慣)」とし、毛頭が「まうとう」、号を「ガウ(呉)・カウ(漢)」とし、号令が「がうれい」、道を「ダウ(呉)、タウ(漢)」とし、道路以目は「だうろめをもつてす」となつてゐます。どうも親字の字音は、文字毎に宣長大人の説を採つたり白井寛陰の説を採つたりしてゐるやうですが、大凡、「豪韻の唇音」が白井説、其の他の豪韻が宣長説になるやうです。熟語の振り仮名は全てアウ韻なので、宣長大人の説です。

新説は、有坂秀世博士が発表したものです。平安時代から室町時代末頃迄の各種文献について、実例を調査した結果、「○下平04豪」「●上声19皓」「●去声20号」の韻では、唇音の子音に限つてオウ韻となる事が実証されたのです。結果的に、『岩波国語辞典』と『新旧かなづかい便覧』は、此の新説を採用してゐた事になります。学界でも定説になつてゐるさうです。

かうして見ると、親字レヴェルで見ると色々と混乱が在りますが、熟語レヴェルでは一貫して宣長大人の説が通用してゐるのが判ります。基本はアウ韻、其の上に「豪韻の唇音」のオウ韻が覆ひ被さる形になるのが正規の字音になるやうです。呉音も漢音も同様の扱ひです。結果的に宝の字の字音は、呉音、漢音共に「ホウ」となるのが正解です。遣ひ分ける必要はありません。

個別事例

乏「ばふ・ぼふ」

「乏」の字音は調べてみると結構混乱してゐます。先づ、『韻鏡』で言ふ処の「外転第四十一合」に類別され、平水韻では、「●入声17洽」に分類されます。子音は唇音になります。

文雄の『磨光韻鏡』で字音は、「ボフ・ハフ」とされてゐるのが判りますが、宣長大人の説や其の他の江戸時代の説は残念乍、判りません(下記追記参照)。明治時代です。『言海』では、貧乏を「びんぼふ」と読ませてゐます。『増補 字源』では、乏を「ハフ・ボフ、通音バフ」とし、貧乏が「ビンバフ」となります。「現代かなづかい」では、貧乏(ビンバフ)、貧乏(ビンボフ)と、御叮嚀に二つの説を併記してゐます。戦後の資料として、『岩波国語辞典』と『新旧かなづかい便覧』では、字音を「ボフ」としてゐます。又、『新字源』では、「バフ(呉)・ハフ(漢)」、貧乏が「びんばふ」となります。

因みに、『字音假字用格』では「乏」と「法」とを引合ひに出して、漢音を「はふ」、呉音を「ほふ」としてゐます。更に、「ほふ」の項の割註には「乏ノ平声凡ノ字去声梵ノ字共ニ呉ハぼんノ音也 是其入声モ呉ぼふナル証也(四十九ウ)」として、「乏」の呉音を「ぼふ」とする見解を示してゐます。(2006/10/28追記)

国語辞典系統の「ぼふ」と、漢和辞典系統の「ばふ」と、見事に二つに別れてゐるやうです。何方も故在つての字音だと思ひますので、こつちが正しい、あつちは間違ひ、等とするのは控へたはうが宜しいかと思ひます。漢籍や仏典の訓点を調べれば、或は正しい字音が確定できるかも知れません。

撥音の表記「ん(む)」

因・殷・音・飲などの「いん」や、煙・宴・塩・炎などの「えん」等、末尾が撥音表記になる字音が在るのですが、其れを更にナ行の撥音「ん」とマ行の撥音「む」とに書分けようとする考へ方が在ります。

江戸時代です。文雄は『磨光韻鏡』で、ナ行マ行共に撥音表記は「ん」を採用してゐます。宣長大人は、撥音表記として、「む」と「う」しか認めてゐませんでした。詰り、ナ行マ行共に撥音表記は「む」を採用してゐた事になります。後に太田全斎と云ふ人が、『漢呉音図説』で、撥音には「む」と「ん」と「う」との三種類が在る事を主張しました。此の主張の延長線上で僧義門が『男信』(なましな)を天保13年(1842年)に刊行して、宣長大人の説を批判したさうです。白井寛陰も、撥音表記は三種類存在すると『音韻仮字用例』で説いてゐます。

明治時代に這入ります。『言海』では、マ行ウ列の「む」と撥音表記の「ん」とを全く同じ文字と判断して、見出し語句を並べてゐます。中身はナ行の撥音もマ行の撥音も「ん」の表記に統合された形になります。詰り、撥音表記としては「ん」を遣つてゐますが、実質は宣長大人の説を採用した形になる訣です。『増補 字源』では、ナ行マ行共に撥音表記は「ん」を遣つてゐますが、「字音索引」や「字訓索引」の語順はワ行の「ワ」の後に撥音の「ン」が並ぶやうな順番になつてゐます。茲で初めて「ん」が一つの仮名文字として独立できたのだと言へます。

戦後は、ナ行マ行共に撥音表記は「ん」を遣つてゐる状況に変化はありません。唯、学術的な場面でマ行の撥音表記として「む」が取上げられる事もあるやうですが、一般的な仮名遣としては撥音の「む」は遣はれません。

参考

纏め

かうして見ると、正かな全盛だつた明治大正昭和の前半迄は、宣長大人の説が広く浸透してゐた事が判ります。ですが、現在は様々な研究の成果が在ります。従来正しいとされて来た説も、明かな誤謬ならば修正したものを遣ふ必要があるでせう。又、場合によつては統合するのも一つの見識です。

結局は漢字一文字一文字について、丹念に調べて行かなければ、正しい字音は割出せないのだと思ひます。字引も韻鏡も、参考資料のやうなものでしかありません。

参考資料

関聯頁

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