12月に這入つたと云ふのに、夏の日差しのやうな太陽に照らされ乍、臺湾のお寺に参詣して参りました。龍山寺は、臺北の街中に建つ観音様のお堂です。清朝の乾隆五年開基と云ふので、結構歴史のある寺院のやうです。お寺の中の様子は、兎に角人が多過ぎで、始終ワシャワシャしてゐた感じですね。地元の人達が真剣にお参りしてゐたり、私のやうな観光客が物見遊山でうろついてゐたりで、騒々しいやら、お香の煙に捲かれるやらで、まあ、いい意味で活気に溢れてゐます。流石は「臺湾の浅草」「神仏のデパート」と言はれる丈あります。観音様のお堂の裏手には、関聖帝君や月下老人など、道教の神様も祀られてゐるので、さながら神仏習合の様を呈してゐます。恋占ひもやつてゐますので、女性にも人気のお寺です。臺北に行つたら外せない観光スポットでせう。其の道の人なら、御朱印帳を持つて行くといい事がありさうです。
「龍山寺簡介」と書かれた御縁起を頂きましたので、一寸日本語の説明部分を一部正かなに直して引用してみたいと思ひます。中々の霊験のやうです。
龍山寺はご本尊さまとして、聖観世音菩薩(観音さま) をお祀りしてをります。また天上聖母(航海の守護女神、福徳招來媽祖)、文昌帝君(日本の天神さま、受験の神様)、関聖帝君(三国志で有名な武将、関羽、財運招來。悪霊退散。勝負必勝、商人の神様) 等の諸神も併せお祀り致して居ります。ご本尊の観音さまの霊験は大変にあらたかで、遠く各地にも数多くの信者がをり、毎日、早朝から夜遅くまで大勢の参詣客がひきもきらずに訪れ、賑はつてをります。
この寺は、清時代の乾隆3年(1738年) に着工し、同5年(1740年) 落成したもので270余年の歴史があります。その間に数度の大改修がなされましたが、なかでも民国8年(1919年) の大改修工事は、中国宮殿式廟宇建築を採用し、民国13年(1924年) には色鮮やかな、壮麗かつ荘厳、芸術性の高い東洋一を誇る名刹が完成しました。
第2次世界大戦終戦直前の民国34年(1945年) に米軍の空襲で本殿が焼夷弾の直撃を受け、石柱までもが全壊するひどい惨状でありましたが、このやうな状況のなかで、木像の本尊、観音菩薩像だけは、無傷のまま端然と蓮座に端座されご安泰でした。
当時、空襲があると付近の住民は観音さまの膝下は絶対安全だと信じ、多数の人々が避難してきましたが、激しい空襲のなか、不思議なことに、避難者には全く死傷者がなく、そのあらたかな霊験は、今日でも人々の間で語り伝へられ、ご加護を讃へてをります。
現在の伽藍は民国42年(1953年) 再建修復されたもので、反り返つた屋根の上から今にも飛び立つのではないかと思はせる鮮やかな瑠璃色の瓦の龍や鳳凰は、以前よりも増して豪華絢爛となり、中国の伽藍建築を代表するものであります。
数枚の写真で龍山寺の様子を見てみよう。
臺湾のお寺では、日本とは違つた方法で参詣する仕来りになつてゐるやうですので、此処で簡単に解説を加へておきます。
占ひはオプションです。
「龍山寺」から退場する時は、必ず「虎門」から出ねばなりません。
願ひ事が叶つたら、必ずお礼をしに行きませう。
参詣方法の詳細は以下のサイトも参照して下さい。
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