第一 神皇正統記の本領

本書の著述の由來、動機等は世間周知の事なれば、ここに論ぜず。この書の本領については世 に往々誤解あり。世には本書を以て歴史の一なりと説くもの少からず。本書の體裁は如何にも歴 史に似たれば、この説一往いはれざるにあらず。然れども歴史としては頗る粗略にして、往々誤 謬あるものなり。世には又本書を以て所謂文明史なり、史論なりとするものあり。これらの説も 一往いはれざるにあらず。然れども、文明史として、史論としてはまさに説くべく、まさに論ず べき點を逸し、且つ、文明史、また史論としては必ずしも要せざる道徳論修養論の如きもの少か らざるを見れば、それらの論の當らざるを知るべし。これらの事はかつて論ぜしこともあれば、 委しくは論ぜずして、直ちに本書の本領につきて説く所あらむとす。

一 國體觀

本書の本領如何なる所に存するか。著者その著の中に言へる所あり。曰はく

神代より正理にて(日嗣を)受傳へつる謂を述べん事を志して常に聞ゆる事をば載せず。然 れば神皇の正統記とや名け侍るべき。

と。即ち本書に於いて説かむとしたる要旨は一言すれば、皇位の繼承は神代の昔より一に正理に よりて行はれたりといふにあり。かくてこの問題は必然的に國體論と皇位繼承論との二方面に展 開すべきものなり。

著者の國體觀は、本書の最初に喝破せる

大日本者神國也。

の一言に盡きたりといふべし。即ちこの意を明細に示せるものこの一部の書なりといふべし。し かも、そがうちにも國體の尊嚴に主力を注ぎて説けるは初頭の數章なり。著者はこの數章に於い てわが國家が神成のものにして人爲にあらず、隨つて外國と建國の初より異なりといふことを力 説せり。

按ずるにわが國を神國なりとする思想は日本紀に既に見え、平安朝位後多くの文獻(貞觀十一 年伊勢石清水二神宮に獻られし告文、長元四年八月の宣命、太神宮雜事記、東大寺要録、平戸記、 玉葉、玉蘂、吾妻鏡、平家物語等)に見えたれば、新らしき事にはあらず。然れども、從來の神 國といふ觀念は神明の擁護したまふ國といふ程の意に解せられ、頗る茫漠たるものに止まりしが 如し。然るに著者のいふ所はさる淺薄なるものにあらずして、

天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を傳へ給ふ。我國のみ此事あり。異朝には其たぐひ なし。此故に神國と云ふ也。

と説明し、又これを要約して、

神明の皇統を傳へ給へる國也。

と説けり。これ實に著者が主張せる神國の意義にして、この神國たりといふこと即ちわが國體の 特色たりといふことに歸す。おもふに、神國といふ思想の中核はまさに著者の説ける所の如きも のにして、古來の人々も、これを感じてはありしならむ。然れども、これを明かにするもの一人 も無かりしが、こゝに著者の喝破によりてはじめて神國といふことの眞意をさとるに至りしなら む。この點より見れば、恐らくは著者は國體學の史上空前の境地を開拓せしものといひて可なる べし。

著者が本書の初頭數章を費して印度及び支那の創世説をあげたるは、これらを以てわが國家の 創生と彼れらの創世説との區別を明かにして内外國體の差異を示し、よりて以てわが國體の特色 を明かにせむとの用意に出でたるものなり。然るにその印度の創世説を比較的に詳細に説けるを 以て著者を目して佛教思想に惑溺せるものと論ずるもの往々存す。然れどもこれらの論をなすも のは畢竟著者の本旨を解せず、又本書を熟讀せざるによる。

按ずるに、かく支那印度の國體と比較してわが國體の特色を説くことは本書にはじまるにあら ずして本書よりも約二十年前に成りて後醍醐天皇の乙夜の覽に供せし虎關の元亨釋書に既に存す るところなり。その書の王臣篇のうちにはくりかへしこれを論ぜる所あり。さればかく比較して 論ずることは著者の獨創にあらずといへども、この方法はその意見が獨斷にあらざるを示すもの として、この論證の方法は今日に於いても合理的の方法として批難を加ふべき餘地なきものなり。

著者が國體學史上空前の境地を開拓せしものなりといふことはそれが先蹤をなすもの無きにあ らずと云ふにあらず。上にいへる如く、比較研究によりてわが國體を正當に認識せむとするが如 き方法は、恐らくは元亨釋書の蹤をふめるものなるべし。されど、釋書に於いては神國の説明を 見るを得ざるなり。これ吾人が先蹤あるべきを認めつゝも、かの神國の意義に於いては著者がは じめて喝破したるものと信ずるものなり。

要するに著者の神國の説明はこれ獨特のものにして又破天荒ともいひつべきものなるが、それ と同時に最もよくわが國體の特色を發揮したるものといはざるべからざるなり。

二 神道觀

著者の國體論は「神國」の一語に盡くともいひうべきこと上に説ける如し。而してこの神國と いふ思想の一方面は神道にあり。ここに國體と神道とは二にして一なる關係の存するを認むべし。 この故に國體説はその源に溯れば勢、神道論に入らざるべからず。これを以て著者は到る所に神 道論を説けり。これ決して好事の爲にも、博識を衒はむが爲にもあらずして必至の勢なればなり。 この故に著者曰はく、

是、併ら神明の御誓あらたにして餘國にことなるべきいはれ也。抑、神道のことはたやすく あらはさずと云ふことあれど、根元をしらざれば、猥しき始ともなりぬべし。其つひえをすく はんために、聊か勒し侍り。

と。これ即ち國體の基は神道にありて、神道を知らざれば國體の根元を知るを得ずとするによる なり。然らば、本書に説く所の神道は如何なるものぞ。

今この問題を提げて本書を檢するにその説隨處にあらはれてあれど、系統を立ててこれを明か にせりとはいひうべからず。然れどもここに本書にあらはれたる一二の點をいはむ。

著者の奉ぜし神道は度會神道にして多少の僻説なきにあらず。一般に當時の神道は所謂純神道 にあらずして著しく佛法に習合せるところあるものなるが、この度會神道は同時に支那傳來の陰 陽五行説及び、宋學の理氣説にも影響を受くること少からざるなり。かくの如くにして、その度 會神道は後世の所謂純神道に比ぶれば甚だ雜駁たるものなれど、佛教、道教、儒教を包含して、 その長をとりて以て自家の藥籠中のものとせむとするその態度は全然排斥すべきにあらず。これ らは一面よりいへば、神道が學的組織を爲さむとする當初に於いては已むを得ざりしものなるべ くして、當時最も學術的に最も進歩せりと思はるゝ神道はこの度會神道なれば、著者のこれを學 びしは寧ろ多とすべく、これにより多少偏する點ありとしても當時の時世として深く咎むべきも のにあらざらむ。

かくの如くなれば、著者の神道説は一見甚だ雜駁なりといふべきなり。然れども、その中心思 想は儼然として動かざるを見る。この神道は佛教に習合し、本地垂迹の思想も明かに存するもの にして、佛を抑へて神道を揚ぐる思想は未だ見ずといへども、然も佛を主にして神道を抑ふるこ とは毫もこれを見ず。はた愚管抄の如く佛法を主とし王法を客とする思想は全くこれを見ず。い づこまでも國體と神道とを中心とせることは明かなり。ただその神道といふ、内部に佛教の或る ものが要素として含有せられてありといふに止まり、佛法の思想を以て國體に逼るが如き態度は 一毫もこれを見ざるなり。道教儒教とても大體かくの如き關係にあるものなり、されば、この神 道はその内包には佛、道、儒の三教の或る要素を含むといへども、神道がその中心となり、主と なりてそれらを補助分子として含めるものなれば、主客を顛倒せるが如き錯誤は無しとす。

著者は上の如く神道觀の上に著しき特色を有せるが、しかも漫然たる神祕説に對しては斷とし てこれを排せり。たとへば、村上天皇の天徳年中の宮中の火災に内侍所が類火にあひ給ひし時に ありきといふ俗説をば、否認せるが如き、その一例なり。

又當時もさまざまの神道説ありしなるが、著者はそれらの雜説に惑はされず、一意純正なるも のに就かむとせしことは次の言にてこれを推知すべし。曰はく、

凡神書にさまざまの異説あり。日本紀舊事本紀古語拾遺等にのせざらん事は末學の輩ひとへ に信用しがたかるべし。彼の書の中に猶一決せざること多し。況や異書におきては正とすべか らず。

ここに舊事本紀をあげて、古事記をあげざるは遺憾なきにあらずといへども、それは時世の未だ 到らざるものとして、著者を責むるに躊躇せざるべからず。とにかくに著者が正しき古典以外に 據るべからずとせる態度は、學問的に見て正々堂々たるものにして、その精神に於いては後世の 純神道家に比して一毫も讓らざるものあり。

以上の如き態度をとれる神道説、以上の如き精神によれる神道觀をもつてして臨めるものなれ ば、その説雜駁なるが如しといへども、毫も國體に累を及ぼすことなく、よく國體の本源を明か にし得たるものとす。

三 皇位繼承論

皇位繼承論は本書にいふ神皇正統の論なり。この事は既に上に引ける著者の語にて明かなるが、 後醍醐天皇崩御の事を記したる後に、

昔仲尼は獲麟に筆をたつとあれば、ここにてとどまりたくはべれど、神皇正統のよこしまな るまじき理を申しのべて素意の末をもあらはさまほしくてしひてしるしつけ侍る也。

といへるが如くに、首尾一貫して、

天地開けし始めより今の世の今日に至るまで、日嗣を受け給ふ事邪ならず。

といふ事を事實上より證明し、又理論上より説明せむと企てたるもの即ち本書なりといふべきな り。要するに、本書一部の本旨、本領はここにありといふべきなり。

世には本書を以て皇統の正閏を論ずるものとし、これを以て、その本領と認むるもの少からず。 この論をなす人の、その精神は諒とすべきものあり。然るに本書一部を通じて、これを見るに、 皇統の正しき事と當に正しかるべき事とは到る所にこれを論説すれども、正と閏とを分つが如き 相待的態度をとれる點は一も存することなし。著者の態度は皇統の正を闡明するにありて、閏と 正とを甄別せよといふが如き薄弱なる言論は一毫もこれを見ず。徹頭徹尾堂々たる絶待的態度を 以て臨めるものなり。かくの如きは著者の信念の確乎不拔にして、他を顧みるが如き薄弱なる思 想の存せざりしが爲なるべく、又もとより純一なるわが皇統の本質必ずかくあらざるべからざる が爲なりしなるべし。

しかも、この正統の論はその正統が事故なくて繼承せらるる時には一毫もこれを論ずる必要を 感ぜず。この故に本書亦この正統の論をなせる所は繼體天皇、光仁天皇、光孝天皇の如く皇位繼 承の上に重大事件の存したりし時に關してのみいへり。かくて本書の出現はその正統論をなすべ き古今未曾有の最大危機に遭遇せしものなりといふべし。かくの如くなれば、本書は正統論に言 及する毎に光輝萬丈、あらゆる邪説僻見を燒き盡さずんばやまざる概あり。その言壯烈、千歳の 後、人をして感奮興起せしめずんばおかざるものあり。明治維新の原動力、この一書に存すとい はるることもとより當然にして、その原動力のやどるところ實にこの正統論にありといふべきな り。

さてここに考ふべきはその正統といへるは如何なる意義あるかといふことなり。これには皇位 の繼承といふ事とその繼承の正しかるべき事といふ二の觀念を含めるものなり。然らば、この皇 位繼承の正しと目せらるべき點は如何なるものか。

わが皇位の尊嚴なることはかの天壤無窮の神勅によりて明かなることなるが、これを演繹すれ ば、その神勅の本旨によりてこれが無限に展開し行くべきもの、これこそ天壤無窮の本旨なりと いふべきなり。されば、歴代の天皇はこれ天照太神の無窮の延長の其の一節にましまし、天祖の 神意を體してこれを實現せらるべき方々にますといふことは明かなり。ここに於いて正統といふ ことは血統の上にては天祖の純なる尊嚴崇高なる血脈をうけられ、精神の上には天祖の神意を受 けて、これを基として國家を統治せらるべきことをさすといふこと明かなり。ここに於いて正統 といふことは、これ天照太神の御本意の發露といふことなりといふべきこととなるべく、著者も 亦、この事を繼體天皇、光孝天皇の條にいへり。然れども凡人たるわれらは神慮をはかり知るこ と能はず。凡人として皇統の正しく繼承せらるることを明かにせむには如何にすべきか。ここに 著者はその神慮にかなはせらるべき條件として道徳を修め政治を正しくせらるべきを強調せり。 かくの如き意見の最も著しく見ゆるは武烈天皇の條なり。果して然らば、著者は支那流の有徳爲 君の想を以てわが皇統繼承の第一義とせるものなるか。

今著者の論を見るに、到る處に帝徳論、道徳政治論を鼓吹して、皇位の實質としては、天皇に 道徳ありて、よく道徳政治を實現するに在りと主張するものの如し。もとより不徳の君主不道の 政治にては君主も國家も存續しうべきものにあらざれど、これが唯一絶待の條件ならば、わが特 異の國體の尊嚴も支那の政治思想と何等の差異なきに到らむ。著者は果してかゝる思想を主張せ しかといふに必ずしも然らず。この事は繼體天皇の條に皇胤を根本の條件とし、その正統にてつ ぎ給はむときは賢さの度を以て次第し奉るべきにあらずとせるを見ても知らるべし。ここに於い てその皇統の正とは何をさすかといふ問題生ず。これにつきて著者曰はく、

唯我國のみ天地ひらけし初より今の世の今日に至るまで、日嗣をうけ給ふことよこしまなら ず、一種姓の中におきてもおのづから傍より傳へ給ひしすら猶正にかへる道ありてぞたもちま しましける。

といへり。ここに傍より正に歸る道ありといへるは如何なる事をさすか。これはたとへば、光仁 天皇の條にいへる如く、一時旁系にうつる事ありとも、所謂天定まつて人に勝つの理にていつし か正系にかへるといへる意なるが如し。而してかの景行天皇の次に日本武尊立ち給ふべきに、早 世ありしかば、成務天皇傍より立ち給ひしかど、その次に日本武尊の御子仲哀天皇の立ち給ひし が如きをさせり。著者はかく旁正の系統を明かに示さむが爲に、仲哀天皇の時より以後天皇の代 數と世數とを區別せり。これ一はその所謂正統ここに在るを一目瞭然たらしめむが爲の用意と思 はれたり。

かくて考ふべきはその系統の正と傍とは何によりて判別せりやといふに、後一條天皇の條にい へるを見れば、正統といふは主として皇長子とその直系の方々との相續がるることにありとする を原則とするものの如し。この原則は實に萬世一系の皇統を永遠に持續せしむる根本原理にして、 時に變ありて止むを得ざる場合の外は、この原則は嚴重に守らるべきものなり。

凡そ系統の傍と正とは、それが直系相續ぐか、兄弟相及ぼすかによりて區別するを根本義とす べきは著者をまたずして明かなり。今わが國が萬世一系の皇統を戴きたりとするはわれらの世界 萬國にむかつて誇りとする所なるが、若し直系の子孫ましますに兄弟相及ぼすに及ばば、二系よ り三系に及び、こゝに亂の階となるべきなり。事實上、わが國史を見るに、兄弟相及ぼされたる 後には必ず國威を墜せるを見る。今少しくこれを説かむ。仁徳天皇の後、履中、反正、允恭三帝 兄弟を以て相及ぼされてより後、紛亂の端を開き、骨肉相殺すの悲劇を演ずること一再ならずし て、皇統漸く微にして、遂に、越前の田舍より繼體天皇を迎へ奉るの一大事件を呈せり。しかも 繼體天皇の後また、安閑、宣化、欽明の三帝兄弟を以て相及ばされ、欽明天皇の後又敏達、用明、 崇峻の三帝兄弟を以て相及ぼされ、内亂相つぎ國威漸く縮まり天智天皇の時三韓を放棄する端既 になれり。天智天皇一旦、皇太弟を立てらるや、壬申の亂階こゝに生じたりといふべし。桓武天 皇の後平城、嵯峨、淳和の三帝また兄弟を以て及ぼしたまひしかば、その間に藥子の亂あり、又 皇太子の廃せらるるもの二人、この間に立ち漁夫の利を占むる藤原氏既に專權の端を得て、終に 陽成天皇の廃立を斷行する如き勢に至れり。村上天皇の後は兄弟相及ぼさるゝこと恒例の如くな りて、皇統の純一こゝに保たれず、藤原氏の專横その極に達せり。後三條天皇より四代一系相續 がれしによりて天下暫く平かなりしが、崇徳、近衞、後白河三帝相及ぼされて、終に保元平治の 大變を起して皇威ますます衰へ、土御門、順徳二帝又兄弟を以て相つがれしが爲に朝廷に二黨を 生じ、承久の一擧かへりて皇威を失墜せしめ、後嵯峨天皇の後又後深草、龜山の二帝兄弟相及ぼ されて、こゝに南北朝の大亂を誘ふ因となれり。これを以て見れば、正統を論ずるものは第一に 先づ直系繼承を根本義とすべく、その他のものは第二義とすべきなり。然るに著者はこの根本義 を嚴密に認めたりやといふに、余は未だこれを知らざるなり。著者の説く所を見るに、かへりて この兄弟相及ぼされたるを以て謙讓の美徳を發揮せられたりとするものの如し。たとへば、嵯峨 天皇の淳和天皇に讓位ありし際の事を敍して「末代までの美談にや」と讚美せるにてその一端を 知るべし。もとより謙讓は相爭ふに比すれば、倫を絶する美徳なれど、皇位の繼承は國家の絶大 公事にして、區々たる私徳を以て律すべきものにあらず。はた又皇位の繼承は天皇の祖宗に對せ らるる第一の本務にして私的の權利にあらず。然るに著者はこの根本義にふれず、區々たる私徳 を以て、この一系相承の道を亂らむとする階梯を讚美するは何ぞや。余はこの點に於いて著者の 正統論は第一義に於いて正鵠を失へるものなりと認め、深く惜むべきものなりと思ふ。

正統記の名を標榜せるこの書が、正統の第一義に於いて當を失せりと認むること上の如し。こ の點に於いて吾人は葛野王の「神代以來子孫相承襲天位。若兄弟相及則亂從此興」といへるに 及ばざること遠きを遺憾とするなり。されど、これ或はこの論をなす余輩の偏見にして著者の譴 を受くべきものならむも知られず。ここに方向を轉じて、その正統を繼がれたることを如何にし て表明するかの問題にうつらむ。

四 神器論

わが皇位の尊嚴なるは、神代以來天祖の神勅のまにまに一系相承けて、かつてあやまらざるに あり。而してその尊嚴にして一系相承けてかはらざる事實を表明するものは實に三種の神器にあ り。道理を以て皇位を繼承せられたる天皇は必ず、その皇位繼承の實を證する爲に道理を以てこ の神器を受けらるる事これわが國家創生以來かつてかはらざる事實なり。神國の實を目前に標示 するものは實に神器にあり。この故に、著者は、

天地も昔にかはらず、日月も光をあらためず、況や三種の神器世に現在し給へり。きはまり あるべからざるは我國を傳ふる寶祚也。

といへるをはじめとして、到る所に於いて神器に就いて説く所頗る詳かにして、神器についての 重大なる事項は必ず記して世人をして惑なからしめむとせり。これ蓋し、深く慮る所ありての事 なるべし。

今著者がこの神器に關して説く所を觀察するに、まさしくその史實の記述と著者の神器觀との 二方面ありと考へらる。

神器は皇位繼承の標識として傳へられしものなれば、この神器の由來を明かにせば、自然に皇 位繼承の事實と皇位の尊嚴と同時に正統觀の誤らざるものとを得べきは見やすき理なり。この故 に著者は論より證據の態度を以てこの史實を明確に傳へむと企てたるものゝ如し。

即ちその三種につきて各その起源と由來とを明かにし、これが、皇位の標識として授受せられ しこと、崇神天皇の御世に鏡劒を模造せられしことよりして、その一方は伊勢神宮、熱田の神と 展開し行く次第、又その神器の神代以來今に儼然と傳はれる所を敍し、一方は宮中なる内侍所及 び劒璽の史上の事實を敍して毫末もそれらを曲筆して人を誤るが如き事なきは、眞に偉大なる見 識といふべし。たとへば、天暦の時内裏炎上ありて神鏡災にかゝらせられし事を敍してこの時神 鏡が南殿の櫻にかゝらせ給ひたるを小野宮右大臣が歎き申しければ、その袖にとび移らせ給ひた りといふ俗説の以前より行はれたりしを僻事なりと否定するが如きは既にいへる如く、公平なる 態度といふべし。かくして敍し來りて、著者の當時この神器が後醍醐天皇より御村上天皇に正し く傳へられて芳野の宮に存すといふことを明かにし、よつて以て芳野の朝廷が正統たることを斷 ぜり。本書の最後の到達點正しくこゝに存す。

神器の重きこと、又重んずべきことはもとより著者をまちてはじめて知らるべき事にはあらね ど、著者がこの神器につきて本書に説く所は詳細にわたれり。これもとより然るべきことにして、 この神器なくんば、何によりて皇位の純正を明かにし得べけむや。而して著者が神器の正しく授 けられたるか否かを見てその皇位を正しく繼承せられたるか否かを判別すべきことを明かにせる は、かの天讓無窮の神勅を受けられたる瓊々杵尊の條に論ずる所に明かなり。

吾勝尊くだり給ふべかりし時天照太神三種の神器を傳へ給ふ。のちに又瓊々杵尊にも授けま しまししに饒速日尊はこれをえ給はず。しかれば日嗣の神にはましまさぬなるべし。

これ、瓊々杵尊と、饒速日尊とのいづれが正統にましますかを三種の神器を傳へられたるか否か よりて判別したるものにして、皇統のはじめに於いてこの論をなすもの、眞意まことに明かなり といふべし。

抑も著者のこの論はその源、舊事本紀に饒速日尊を以て瓊々杵尊の兄たりとするに基づくもの にして、舊事本紀を信じたる點に於いて著しき弱點あるなり。然るに、著者かく饒速日尊を以て 皇兄なりと信じつゝもなほ三種の神器を傳へられぬを以て天日嗣にあらずと斷ぜる、その確乎た る識見は實に偉大なりといふべく、この精神即ちこの著一卷の精神といひて決して過言にあらざ るべく、神皇正統の實はこの神器の授受によりて、はじめて明かに示されたるものなり。されば 著者が、この神器に關する事實の記述に力をこむることもとより然るべきことなり。

要するに、神器の授受を正しくすること、これ神皇正統の根本義たるを儼然たる態度を以て宣 言せるもの即ち本書なりとす。

著者は上の如く神器の由來と尊嚴とを明かにして世の蒙を啓かむとせるが、他面に於いてこの 神器によりて示されたる思想をあげ示せり、これを著者の神器觀とす。

この三種の神器は皇位の絶待標識なると同時に、これは天皇の徳と道とを示されたるものなり とすることこの著者の意見なり。即ち著者はこの三種の神器を以て儒教の所謂知仁勇の三徳に該 當するものを表象せられたりとしてこれを説くこと詳かにして、事に觸れてこれを述べざるなし。 而して同時にこれを以て道徳政治を行ふべき基準を示されたるものとせり。著者のこの論に似た るもの、むしろこの種の見解の萠芽ともいふべきものは日本紀に既に見えたるものにして、これ は決して著者の附會にあらざるべしといへども、これをかくの如く明かにせるは著者を以て著し とす。僧師錬の著したる元亨釋書中三種神器を論ずることありて、これが神聖を説くこと力めた りといへども未だ著者の如き論に觸れず。この點に於いて又著者は破天荒の地位に立てりといふ べし。

顧みれば、この神器觀は一面著者の神道論に基づくものなるべきは疑ふべからず。而してその 神道論は國體論と表裏の關係にあり、又この神器觀は神道論に基づき、その神器の神聖なるは國 體の第一義たる皇位繼承の上に絶待的の關係あるものなれば、ここにこれらの意見はすべて渾然 として一となるべきものなり。

かくしてこの神器觀として述ぶる所は帝徳論となり、皇道論となり、更にこれを敷衍すれば、 一般の道徳論となり、臣道論となり、又一般の政治論ともなる。こゝに於いて著者の意見は一面 に於いて國民道徳論の源をなすに至れり。

五 道徳論

抑も著者の道徳觀政治觀その要をとへば、すべて三種の神器によりてこれを表明せられたるも のとするを見る。著者は先づ神器の道徳的意義を説きて曰はく、

鏡は一物をたくはへず、私の心なくして萬象をてらすに是非善惡のすがたあらはれずと云ふ ことなし。其すがたにしたがひて感應するを徳とす。これ正直の本源也。玉は柔和善順を徳と す。慈悲の本源也。劒は剛利決斷を徳とす。智慧の本源なり。此の三徳を翕せ受けずしては天 下のをさまらん事まことにかたかるべし。

これは一面は著者の抱ける徳治主義の一端を説けるものと見らるれど、主とする所は著者の神器 觀即ち道徳觀を表明せりとも見らる。かくてこの三徳中いづれが最も重きかといふに、著者は、

中にも鏡を本とし、宗廟の正體とあふがれ給ふ。鏡は明をかたちとせり。心性あきらかなれ ば、慈悲決斷は其中にあり。

といへり。これ鏡の徳たる明即ち正直を其の中心とすることを明言せるなり。この事は著者が、 本書に反復して説ける所なり。然らば、その正直とは如何なる事をいふか。著者曰はく、

但、其の末を學びて源を明めざれば、事に望みて覺えざる過あり。其源と云ふは、心に一物 をたくはへざるを云ふ。しかも虚無の内に留るべからず。天地あり、君臣あり、善惡の報影響 の如し。己が欲をすて、人を利するを先として境々に對する事鏡の物を照すが如く明々として 迷はざらんをまことの正道と云ふべきにや。

と。誠を説きて、かくの如く、切實周到なるもの蓋し稀なり。まことに至言といひつべし。かく て、正直の徳を養ふ道を説き、その修養のはじめとして言語を愼むべきことを論ぜるは誠に肯綮 にあたれりといふべし。

凡そ、著者のこれらの論、儒佛に於ける道徳説の精要を摘みて以て道徳の根柢、修徳の心得と して、言は簡なりといへども、よく要を得て。今日といへども、これ以上の理なく、又これを用 ゐて盡くることなきなり。ことに、人臣たる者の道を説けること亦至れり。その後嵯峨天皇、後 醍醐天皇等の條に於いて、これを説くこと反覆丁寧にして一々之をあぐるに遑なし。さてもかく 人臣の心得を説けるがうちにも著者の一門たる源氏の論に於いても又適切なる言を見る。かく著 者自らがその一族をさとす爲にいへる言を見ても、著者が如何に敬虔忠誠の人たりしかを知るに 足るべし。かかる敬虔忠誠なる人にしてはじめて言々句々人の肺腑に入ることをうるなり。

ことにその臣道の根本精神を論ずるに當りては眞に天地の神明の託宣をきくが如き概あり。曰 はく、

凡そ王土にはらまれて忠をいたし、命をすつるは人臣の道なり。必ず、これを身の高名と思 ふべきにあらず。

その言簡なれども精。道徳の本性たる、道なるが故に行ふといふ眞理を一言にして喝破せるもの にして、光焔萬丈千古を照すといふべし。これを以ても著者が優越せる道徳觀を有せしを見るべ し。

更に又世の善惡を判斷すべき原理を道徳に求むべしとせることは著者が、所謂末世といふもの の意義を説けるにても知らる。曰はく、

世の中のおとろふると申すは日月の光のかはるにもあらず、草木の色のあらたまるにもあら じ。人の心のあしくなり行くを末世とはいへるにや。

といへり。然り、而して、世の治亂は畢竟この徳教の行はるるか否かによるといふことを著者は 信ぜり。故にかの保元の亂に朝廷よりして義朝に命じて爲義を斬らせられしことを論じて、後

保元平治より以來、天下みだれて武用さかりに、王位かろく成りぬ。いまだ太平の世にかへ らざるは名行のやぶれそめしによれることとぞみえたる。

といへるはこれ亦至言にして、治亂の機、一に徳教にかかりて存することを知れるものにあらず ばいひ得ざる所なり。

以上の如くなれば、著者はその當時の世相に對してはその道徳の教の地におちたることをいた く憤りもし、又憂へもしたることは明かなるが、然らば著者はこれを悲觀せしかといふに、決し て然らず。

代くだれりとて自ら賤むべからず。天地の始は今日を始とする理あり。加之、君も臣も神を さること遠からず、常に冥の知見をかへりみ、神の本誓をさとりて正に居せんことを心ざし、 邪なからんことを思ひ給ふべし。

と。これ豈に悲觀論者の言ならんや。又、後村上天皇の御世を申すとて、

今の御門また、天照太神よりこのかたの正統をうけましましぬれば、この御光にあらそひた てまつる者やあるべき。中々かくてしづまるべき時の運とぞおぼえ侍る。

著者のこの信念は短日月の間に容易に實現することを得ざりしが如くなれど、數百年を經て、今 日の聖世を導き出したる、その原動力は著者のこの思想の力なれば、決して著者の勞は效なくし て終れりといふべからざるなり。

六 帝王の修養

以上の外、著者は到る所に帝王の學と道とを説き、又政治の要道を論ぜり。而してそれらのう ちに於いて帝王の學と道とを説くことは特に丁寧なりと思はる。惟ふに帝王學といふもの若しあ らば、本書はまことにその帝王學の教科書といひても可なるものならむ。

先づ、その國體と皇位繼承との重大なる所以と事實とを知ること、もとより帝王に絶待的に必 要の事件なり。本書はこれを明かにするを目的とせること既に説ける所の如し。本書は更に進み て帝王たるものの徳を修むべきことを力説せり。この事はかの三種神器の條にも力説せるが、更 に八幡大神の條の八正道の説明に於いて之を委しくせり。かくて曰はく、

此三種に就きたる神敕は正しく國をたもちますべき道なるべし。

かくの如くにして祖宗の御精神を體してこの國に君臨せらるべきものなりとするが、著者の本旨 なりと觀察せらる。著者曰はく、

我國は神国なれば天照太神の御計にまかせられたるにや。されど、其中に御あやまりあれば、 暦數も久しからず、又つひには正路にかへれど、一旦もしづませ給ふためしもあり。これはみ なみづからなさせ給ふ御とがなり。

といへり、かくの如く、帝王たる實をあげられむにはその徳を十分に供へられむことを必要とせ り。この故に

聖徳は必百代にまつらるとこそみえたれど、不徳の子孫あらば、其宗を滅すべき先蹤甚おほ し。

といひ、

かかれば、先祖大なる徳ありとも不徳の子孫、宗廟のまつりをたたん事うたがひなし。

といひて、反省を王者に求むること切實なり。

著者のこの著、又君徳の修養に資せむとする願切なればにや、帝王の統の更迭する場合には必 ず修徳の論をなさざることなし。そのうち最も著しきは光孝天皇の條なりとす。或は君徳の修養 に缺けたる點ある場合は忌憚なく批難せり。而して宇多後宇多の二代の御事を委しく説けるは君 徳修養の模範にましますが故なり。

かくの如くにして著者は帝王の學の第一として修養を勸むること丁寧到らざるなし。然らば、 この修むべき徳は如何なるものかといふに、汎く人としての徳すべてこれ帝王も修むべきものに して、その一般性につきていはゞ、特に帝王の徳といひて狹くすべきにあらねど、帝王の帝王た る所以はその廣大覆はざるなき絶大なる地位にあれば、この徳の大、その道の大は臣民などの局 部に偏せるものと同日にして論ずべきにあらず。これ著者が、その帝王の徳の修養にことに力を 注げる所以なるべし。然らば帝王の徳の修養は如何。

この事も亦一般の修養と同一にして特に帝王の修養としてあぐべき點なきが如しといへども、 しかも帝王がその地位よりして往々陷り易き點あるに付きて著者は頗る力を致してこれを説けり。 それは何ぞといふに、往々にして臣下の爲にその明を蔽はるるが如き弊あることなり。この點に つきては著者は頗る苦心せる所ありと見らる。應神天皇、醍醐天皇が讒を信じたまひし事をあげ て、御誡とせることの如き、その著しきものなり。然して、その具體的の御訓としては主として 寛平の御誡をあげたり。これ亦もとより當然の事として用意周到間然すべき所なしといふべし。

帝徳論に次いでは帝王の學問の必要を論ずること頗る丁寧なり。これも亦寛平の遺誡を基とし て論ぜるが、後宇多天皇の條に於いて、最も詳かにこれを痛論せり。ことに、

唐に仇士良とて近習の宦者にて内權をとる極めたる奸人也。其黨類にをしへけるは人主に書 をみせたてまつるな。はかなきあそびたはぶれをして御心をみだるべし。書をみて此道を知り たまはば、我ともがらはうせぬべしと云ひける、今もありぬべきことにや。

といへる、その言痛烈、奸佞の徒をして膽を寒からしむるものあり。ことに末の一言は千古にわ たりて人主たるものの顧るべき要點たり。而して又帝王輔佐の大臣の恒に紳に書して忘るべから ざる金言にして、現代に於いても痛烈にこの言の必要なるを見る。

かくの如くにして著者は帝王の學問の必要を到る處に力説せるが、その學問が一に偏するを不 可として諸道を弘く知らるべきを論ぜり。この事は嵯峨天皇の條に説く所最も著しとす。その中 に曰はく、

且は佛教にかぎらず儒道の二教乃至もろもろの道いやしき藝までもおこしもちゐるを聖代と 云ふべき也。

この事は單に帝王の學たりといふに止まらず、王道としてかくあるべきを、その本源たる神道の 精神よりしても著者は信ぜるなり。かくて儒佛二教を以て皇道の羽翼とすべきことを主張し、帝 王の學もまたこの態度に出づべきを精神とせり。かくてその學問は儒教のみならず、佛教にもわ たるべく、佛教にても諸宗を洽く知りたまはずは帝王の道にたがふとして、これを説くこと一斑 ながら諸宗にわたれり。從來の學者、著者のこの用意を顧みずして著者が佛道に偏せりとなす。 余惟ふに、これ決して偏せるものにあらず。當時人心のつながる所主としてこの佛教各宗にあれ ば、それらの宗教の如何を知らずしてわが國を治めむこと難かりしならむ。著者の見る所は單に 信仰よりのみいふにあらずして、平々蕩々たる帝王の一視同仁の精神よりして洽く諸宗にわたり、 諸道に通じてましますべきを主張とせるが爲なり。

著者は上の如き精神を以て音樂よりはじめ諸藝諸能につきても決して疎にせらるべからざるを 論ぜり。かくの如き見地より見れば、著者が、支那の歴代を概説せること、又儒教佛教道教の祖 とその教の大旨を説くこととの如きは神皇正統の本旨より見れば、殆ど無用の言の如く見ゆるこ となれども、實は帝王の學として必要の事たることを知るべきなり。著者のこの精神を酌まざる ものには、又上述の支那歴代の興亡の如きは無用の言を弄するが如くに見ゆべきなり。

かくの如く支那歴代の興亡につきて注意を怠らざる著者が、わが國の政治上の治亂興敗に注意 を怠らずしてその要をあげてこれを論ずることあるはもとより當然の事といふべし。これ一面よ り見れば、政治史、文明史の如く見ゆる點にして、本書が歴史なりと論ぜられたる點ここにあれ ど、これはもとより史論をなさむが本旨にあらずして、この治亂興敗の跡を論じて以て君徳輔導 の一端に供せむとせしものと見らる。この故にその論は單なる放言にあらずして、この治亂興敗 の跡を顧みて以て政治を行はるべきを到る處に切言せるなり。

この治亂興敗の迹を論ずるは上述の如く帝王學の一端として述べたりと考ふべきものなれど、 その言を見るに、同時に執政輔佐の任に當るものの鑑戒とせよと論ずるところ少からず。これこ の書が、帝王のみならず、執政補佐の任に當るべき人にも參考になれかしと冀ひて編せるが故な るべし、而してその治亂興敗の迹を論じてこれを判ずるには一定の標準なかるべからず。ここに これが標準としたる著者の政道論を一瞥せむとす。

七 政道論

先づ著者が政道の指針をいづれに求めたるかといふに、既にも述べたる如く、これを三種の神 器によりて示されたりとするなり。そはかの正直慈悲智慧の三徳を敍したる後に、

此の三徳を翕せ受けずしては天下のをさまらん事まことにかたかるべし。

といひ、又

およそ、政道と云ふことは所々にしるしはべれど、正直慈悲を本として決斷の力あるべき也。

といへるにて明かなり。この言簡なれど、政道の要をつくせり。正直は誠なり。誠ならざれば、 すべての行動一切虚僞なり。虚僞にして天下の治まるべき筈なし。されど、誠は一切の道の根柢 にして特に政治の道にかぎるべからず。政治の道としてはその決斷にあることいふまでもなし。 決斷なくして何の政治あらんや。著者の言簡にして要を得たりといふはこの故なり。

さてその決斷といへるは政道の要諦をさせるものにして著者は「其人をえらびて官に任ず」 「國郡をわたくしにせず、わかつ所かならず其の理のままにす」「功あるをば必ず賞し、罪ある をば必ず罰す」といふ三要項をあげて、一國の治亂興亡に一にこの三者の正しく行はるるか否か にかゝり存すとして、それの詳細にわたりて論ずる所まことに治國の要諦をつくし、ことにかの 建武中興の成敗に論及せる所爲政者の服膺して常に鑑むべき所たるやいふまでもなし。しかも謬 擧と尸祿とを戒むること痛切に、功を賞すると官に任ずるとを峻別すべきことを論じて濫賞を戒 めたるが如き、現代に於いてもまさに服膺せらるべき金石の言たりとす。

以上敍する所は主として政治の形式なり。ここに其政治の實質につきて著者の論ずる所を見む。 この政治の實質は即ち三種の神器の徳の一として示されたる慈悲の政にあり、仁政にあり。この 故に曰はく、

かくのごとくさまざまなる道をもちゐて民のうれへをやすめ、おのおののあらそひなからし めん事を本とすべし。民の賦斂をあつくしてみづからの心をほしきまゝにする事は亂世亂國の もとゐ也。我國は王種のかはることはなけれども、政みだれぬれば、暦數ひさしからず、繼體 もたがふためし所々にしるし侍りぬ。

といひ、

神は人をやすくするを本誓とす。天下の萬民は皆神物なり。君は尊くましませど、一人をた のしましめ萬民をくるしむる事は天もゆるさず、神もさいはひせぬいはれなれば、政の可否に したがひて御運の通塞あるべしとぞおぼえ侍る。

といへり。

かくの如き見地に立てる著者の興亡史論は、そのかゝる所の一半はこの仁政如何によりて歸趨 する所を示すものなり。この故に武家の政治につきても、著者は一概に否認すること能はざるな り。かの建武中興の成敗を論ずる條その他に於いても、その王政復古に該當すべき實績なかるべ からざるを主張せり。即ち民政に於いて眞に民心の悦服する所なくば、決して眞の王政復古は得 られずとする意を反復説明せり。

かくの如き見地に立ちては勢やむを得ず、頼朝泰時が民政上の功を認めざるを得ざりしならむ。 古來著者の頼朝泰時論は、識者の論議する所にして、かの伴蒿蹊の如き人をして「あやしぶに足 れり」と評せしむるにまで至れるなり。神皇正統の記にして、又上下の分を正しくせむを本旨と する本書にして、上の如く、不臣の頼朝、泰時等を謳歌する如く思はしむる言議あるは、恐らく は著者の本旨にあらざるべし。然れど、時世の變、若し、これらの人々なくば、「日本國の人民い かにかなりなまし」と思ふ時に、自然にこの論に出でざるを得ざりしなるべし。而して、これ實 に王者たるもの、又、その輔佐の重臣に、仁政を施すにあらずば、決して君主たるの實を完くす るものにあらざるを教導せむが爲の苦衷より出でたる微言に外ならじ。この苦衷の微言を察せず、 表面の語のみにて著者を論ずるが如きは未だ著者の本旨をさとらぬものにあらざるか。この見地 よりして余は大町桂月の見を以て群を絶せりとす。曰はく、

この一節仁政を力説す。頼朝泰時は虚にして、仁政は實也。親房の頼朝泰時を褒むるは即ち 仁政を褒むる也。千古の公論也。

と。

抑も天皇親政の政治の上に著しき變態を生じたるは藤原氏の攝政を以てはじめとす。著者はこ れを如何に觀じたるか。著者は清和の御時藤原良房が人臣にして攝政たることの始を敍したるの みにて何等の批評を下さず。藤原氏が國政をとるは神代以來の宿命なりとするものの如し。され ど、かくの如きはもとより藤原氏一家の言にして、萬世の公論にあらず。著者が、これを議せざ るものは、時世上已むを得ざりし事なるべけれど、もとより公正といふべからざるなり。

かくてこの攝關政治の弊に堪へずしてこれを打開せむとせられしが後三條天皇なり。天皇はよ く藤原氏の專横を抑へ給ひしかど、不幸にして世を早くしましまして、親政の基をかたくし給ふ 遑あらざりき。白河天皇その後をうけて親政の實をあげられしかど、讓位の後院中にて政を知り 給ふこと四十餘年。ここに前代未聞の院政といふ變態を起されたり。

院政についての著者の評論は言長からざれど肯綮にあたれり。抑も攝關の政治は如何にも大權 を干せる如くなれど、それは内部にての事にして、その行ふ所は一々悉く勅命及び、勅命により て委任せられたる太政官の公式によりて執行せるものなれば、法規上一點の批議すべきものなし。 これ著者がこれを容認するを得し所にして、この點より見れば、われらも亦同じく然りといふに 躊躇せず。即ちその頃は藤原氏專横の實ありといへども、勅命を經るにあらざれば、一毫も自由 にこれを行はざりしなり。即ち藤原氏は專横なりといへども一天の君の主權を法規上干犯するこ となかりしなり。

凡そ國家の主權が最高唯一絶待のものなる以上、在位の天皇の上にありてこれを左右するもの の存すべき理なし。この故に、天皇讓位の後は、當代の天皇は血統上卑屬にましますといへども 唯一絶待の天位にまします以上、法理上、上皇、法皇は臣下の地位にありといふべき關係にあり。 この故に宇多法皇の如きは當代の君に上表して臣某と稱せらるるに至れり。かくの如きは臣民た るものより彼是の論議を加へ奉るべきものにあらざるべしといへども、法理の上より論ずればま さしく然るべきなり。隨つて遜位の上皇が政治に喙を容れらるるが如きことは存すべからざるも のとせり。若しそれ在位の天皇の上に加ふるもののある時は天皇の神聖はここに害せられ、主權 の唯一絶待の地位は保たれざるが爲にして天皇を至上とすることは千古不磨の公規たり。然るに、 この院政は天皇の上に院といふ實權者ありてこれを左右し、勅宣、太政官符の上に院宣、院廳の 下文といふものありてその勢力これを左右する所あり。ここに天皇以上の實權者あらはれたるこ ととなる。これもとより攝關の專横を抑へて、皇室に政權を囘收せられむが爲の擧なることは明 かなりといへども、天皇の法理上の大權が害せられたること、これより甚しきはなし。これ著者 が白河天皇の條にこれを痛論し、終に

世の末になれる姿なるべきにや。

と浩嘆せる所以なり。

かくて、この弊政はついで起れる武家政治と内外相應じて天皇親政の本義を破壞すること多年。 終に皇位に即かざる親王が院號を受けて院政を行はるるに至れり。(後堀河院の朝)衰世の極と いふべきなり。かくの如きことはこの後高倉院一代に限りたれども、しかも院政の弊は後醍醐天 皇の御時に及べり。

かくの如き變態政治の行はれたるはこれもとより著者の主張する如く、人心の悪しくなれる結 果に外ならず。論ずるまでもなく、この白河院の時よりわが國家は有形無形に變態を起したりし なり。これが爲に一轉して保元平治の亂となり、ここに平氏專權のはじめをなし、平氏の專權が 因となりて反動的に源氏の勃興を促し、ここに武家政治といふ一大變態を生じ、公家の院政と内 外相應じて、わが國家をば未曾有の變態政治に導きたるなり。この變態政治はもとより天皇親政 の根本義に牴觸すること甚しきものあるなり。

武家政治はわが國體よりして見れば、決して容認すべからざる變體なり。この故に著者はその 創始者たる頼朝に對しては「自ら權を恣にす」と批難し、又その創始に關しても之を批難せるが、 しかも勢の已むを得ざる所ありとしてこれを認めざるを得ざることをいへり。要するに武家政治 は名教の廢れに因するものとして著者の根本主義よりいへば、もとよりこれを否認するものなり といへども、その民政は當時の公家政治よりも遙かにまされりとするものなり。この故に實際 上、これにとりてかはるべきものの存在せぬ以上、王政復古の實はあがらざるべしと信じたりと 思はる。

著者の抱懷せし政治の理想如何なりしかを忖度するに著者は上の如く院政を否認して天皇の親 政を本義とせり。而して天皇の親政は當然攝關政治を否認せざるべからず。著者はこれを公言せ ざれど、著者が推戴せし後醍醐天皇は事實上攝關の政治を否認したまへり。かくして更に文武を 一にすることこれ實にその政治の要諦にありしならむ。建武の中興はこの理想を實現せむが爲の 一大運動にして、實に五六百年間の積弊を一掃して以て天皇親政の古にかへされたるものなり。 然れども、當時武家の勢力牢として拔くべからず。且つは又天皇親政に相當する實質を具へずし て失敗せり。この事實に直面せる著者の胸裡果して如何なるものありしか。かくてこれを建武の 中興に實現することを得ずして空しくこれを言に寓して、後代の知己を待てる苦衷を思へば、感 慨無量なるものあり。然れども、著者のこの苦衷は六百歳の後にしてはじめて報いられたり。然 らば、著者のこの書を著ししもの決して徒勞に終らざりきといふべきなり。

八 思想

著者の國體觀、道徳觀、政治觀は略これを述べたり。而してそれらの源泉たるべき著者の思想 を考ふるに、その内容甚だしく多樣にして包容力の大なることは、蓋し比類稀なるものなるべし。

著者の思想は既に述べたる如く、神道佛教儒教道教諸般の學藝一切を攝取してすてざらむとす る態度に出でたるものなれば、その内容の多樣なると共に雜駁の弊を生じ易きなり。而もその思 想を見るに、多少不純の嫌なきにあらざるは時世の罪としてこれを見過すべきものなるべし。而 してその内容をなす主たるものは神道と佛教と儒教との三者たりとす。かくてこの三者の關係を 見るに、著者は能くその主客の別を心得てありきと思はる。

佛教と著者との關係は甚だ深く、著者は壯年にして既に佛門に歸し、爾來世を終ふるまでこれ を棄てざりき。而して佛教につきての造詣の深きことは本書を一閲しても知らるべし。この故に 論者往々著者を目して佛に佞せりとするものあり。然れども、余輩を以て見れば、著者が佛に佞 せりとする處は一も發見せざるのみならず、かへりて反對の現象の存するを見る。この事は慈鎭 和尚の愚管抄と比較する時に最もよく了解しうべし。

本書と愚管抄との關係につきては世に往々本書を以て愚管抄の亞流若くは後繼者の如くに説く 者あり。然れども愚管抄の本旨と本書の本旨とは本質的に相容れぬものあれば、この説は決して 當らざるものなり。愚管抄と本書との思想上の著しく別なる點をいはば、愚管抄は王法佛法相互 に助くるものとせるが、寧ろ佛法を重くし、王法を第二におきて論ずる所少からず。本書が佛法 を輕視せざるは勿論なれど、皇道が主となりて佛法を攝取すといふ態度に出でたり。この故に佛 法によりてわが神皇の道を曲解せむとしたる態度を見ず。次に愚管抄は佛者の末法思想を以て當 代に臨み、著しく悲觀的退嬰的なり。本書にはかくの如き思想なきのみならず、

代下れりとて自ら賤むべからず。天地の初は今日を初とする理あり。

といへるが如きは佛者の所謂末世末法の思想支那の澆季説とは氷炭相容れざるものなり。又

又百王ましますべしと申める、十々の百には非るべし。窮なきを百とも云へり。百官百姓な ど云ふにてしるべき也。

といへる所は愚管抄の退嬰的悲觀的限定的の百王の解釋とは對角線的に反對せりといふべきなり。 その他枝葉の點につきて論ずべき所少からねど今略せり。

次に儒教との關係如何。著者が儒教の影響を受けたることは著しきものあり。ことに宋學の影 響を受けたることはその神道説の上にも見えたるが、春秋の本旨を體して大義名分を正しうし、 内を尊び、外を卑むこと、王道を尊び、覇道を斥くるが如きは朱熹の學風によれる點もなしとせ ず。しかも宋學よりはその長を採れるものにして、その學風の陷り易き繁文縟體の弊を受けざり しは多とすべきなり。抑も儒學をなすものの最も陷り易き弊はその學を貴ぶあまりに支那を貴び、 わが國を輕んずることなり。今著者はかゝる弊なく、よく内外の輕重を知れり。たとへば、孝靈 天皇の條に、

異國には此國を東夷とす。此國よりは又彼國をも西蕃と云へるがごとし。

といへる如き一言にして、よく内外の別を明かにせりといふべし。

以上説く所の如く著者のわが國體を失墜せざらむ用意到る處に瞥見するをうべし。然りとて著 者は自國を故らに誇大する精神は決して有せざりしなり。たとへば、扶桑の名につきて論ぜる所 の如き、その公平なる態度を見るべきなり。

この國名につきてなほ一言すべきことあり。本書のはじめにわが國の名につきて縷々述ぶる所 ありてその言頗る委し。これ何の爲ぞといふに、儒教の所謂正名の精神より出でたるものにして、 名の義を正しくすることは、一面、古の精神を正しく傳ふることなればなり。

この正名につきては吾人はなほ一二論ずべき點あるを思ふ。本書を繙くものはわが國の主權者 の名目として神代よりは「神」を以て標とし、神武天皇以降は「天皇」を以て標とせるが、その 間に「神功皇后」を一代として加へたることは不徹底なり。されど、天皇として即位せられたる にあらねば、これを「皇后」として標出せることは當を得たりといふべし。かくて、村上天皇ま では皆「天皇」を以て稱し奉るに、次代よりは冷泉院、圓融院の如く院を以て稱し奉り、天皇を 以て稱し奉れるものは安徳、後醍醐の二帝に限れり。これ著者の私意にあらずして、その頃より の稱謂かくの如くにありしなり。この故に著者は冷泉院の條に於いてこれを痛論せり。その論ま た正當の言にして徳教の廢せむとするや先づ名の正しからざるよりはじまる。而して又徳教を興 さむとするや先づ名を正しくするよりはじめざるべからざるなり。安徳天皇は御生前、院に在し まさず、又某院と稱すべしとの御遺詔もましまさず。これによりて謚號に基づきて、安徳天皇と 申し奉りしことは著者の記したる事にて明かなり。後醍醐天皇に至りては、かく天皇と稱し奉る べきことはこれ御遺詔に基づくものなること著者の告ぐることにて明かなり。ここにまた五六百 年間の名分の紊れを矯正せられしことを見て、吾人は欣喜の情に堪へざるなり。この天皇にして はじめて、王政復古の眞義を名に於いて正したまひたりといふべく、この臣にしてよくこの正名 を千古に傳へたりといふべし。本書を讀まむ人ここの重大事を輕視することなかれ。

著者の正名の態度は、臣下の名を記す上に於いて嚴肅なり。今、後醍醐天皇の條について例を あげむか、四位五位の人につはては某朝臣といひ(義家朝臣、平義時朝臣等)三位以上の人につ きては某卿(頼朝卿、源顯家卿)といふ。これ皆朝廷の公式に基づくものなり。かの己が子を源 顯家卿といふが如きは、名分を心得ざるものには或は異樣の感を與へむか。されど、これは朝廷 の公事にして家庭の私事にあらず。官職の尊重すべき事を知らば、この公と私との差別によるこ とを正しく認識すべきなり。されば、足利高氏の名をば決して尊氏と書かざりしことは、これ亦 かれが謀反せし以上、後醍醐天皇より賜はりし「尊」の字は當然召しかへされたるによるものな り。その記述に名分を正したりしことこれらの例にて知るべきなり。而してこれまた一面、春秋 の名分を正す精神に基づく所ありといひて可なり。

要するに著者が儒教より受けたる所も概してその長を採りて短を棄てたりといふべきが、ただ 一事、皇位を兄弟相讓らるるを美徳とするが如きは支那思想に累せられたる點として贊すべきも のにあらざること既にいふ所の如し。

著者の論ずる所は概していはば、包括的積極的にして、それが爲に多少不純の嫌はあれど、排 他的消極的の弊なく、日本思想の正系を得たるものと評しつべきなり。ことに如何に苦境に陷る とも悲觀を抱かず、自暴自棄に陷らず、あくまでも罪惡と戰ひて、正義の勝利を前途に認むるも の、これ眞に日本思想の正系たり。著者は、その正義の一時行はれざるさまに見ゆることにつき て説いて曰はく、

人は昔をわするゝものなれど、天は道をうしなはざるべし。さらばなど、天は正理のまゝに はおこなはれぬと云ふことうたがはしけれど、人の善惡はみづからの果報也。世のやすからざ るは時の災難也。天道も神明もいかにともせぬことなれど、邪なるものは久しからずしてほろ び、亂たる世も正にかへるは古今の理也。

と。これまさしく正義が終局に勝利を占むべきを確信せるものにして、やがて、王政の復古を導 く原動力となれるものなり。

九 結論

本書の記事は、これを歴史として見れば、必ずしも正確といふべからずして、それらのうちに 誤謬あり、又俗傳をとれりと評すべき點なしとせず。然れども、本書は元來史實を詳かに述ぶる を目的とせるものにあらざれば、これを以て本書を評するが如きは、未だ本書を知らざるものな りといふべし。

按ずるに著者がこの著をなしゝは常陸國小田城に在りて、死生の衢に馳驅せし時にして、同時 に芳野朝廷より後醍醐天皇晏駕の悲報の到りし時に在り。これを草しつゝ在りし當時の著者の胸 中果して如何ぞや。内には絶世の英主と仰ぎし天皇に別れ奉り、新帝補佐の大任を果しうべき臣 僚果して誰ぞやの懸念あり。外には足利一黨のますゝゝ跋扈せむの惧ありて、神皇正統の大義殆 ど地に墜ちたるかの觀ありし時にこの一篇を草せしものなり。吾人が多少の缺陷をとりて本書の 批評をなすが如きは思へば僣越の事といはざるべからず。あゝ、若しこの時に於いて本書出でず んば、わが國體は果して如何なる事になりたりしぞや。

今本書が後世の思想界に影響せることの如何を見るに、その方面多端にして決して一二の問題 に止まらざるが、その著しき點を少しくいはむか。先づかの限定百王説は本書によりて粉碎せら れ、爾後またかゝる僻説を唱ふるものを見ず。その證はかの北山觀證寺の僧行譽の手に成れる嚢鈔 に百敷といふ事の説明に本書を引きて論ぜるにて明かなり。又我國の外交史の最初のものた る善隣國寶記が、本書を祖述せるを見るは頗る興味深き事なりとす。こは後土御門天皇の文正元 年に僧周鳳の編せしものなり。その序の中に曰はく、

或間、此記之首略述神代事何也。曰、此方學徒讀震旦書者知其國山川人物、讀天竺書 者亦然。吾國雖六國史等書而讀者鮮矣。故知本國事者幾希矣。捨近取遠無乃左乎。

今録兩國相通之事先當人知吾國之爲神國之由故述十一二耳。此皆神皇正統記中 所載也。其記過半倭字今改作漢字矣。

とあり。この言恰も現代人の弊を論ずるに似たれば、さる方にても讀者の一顧をわづらはすべき 價値ありとす。この著者周鳳の地位は、當時の智識階級を殆ど獨占せる僧侶の首班に位せるもの なれば、本書の思想が室町時代の思想界の主位にすゑられてありしを見るべきなり。而してこの 思想が當時の外交文書を掌れる五山の僧徒の間に瀰漫し、かれらの間に純正なる國體思想を植ゑ つけたるものと思はるるが、ここに外交の文書に於いてわが國體を堂々と宣言せるものを生じた り。豐臣秀吉が臥亞の總督に與へし書の冒頭に曰はく、

日本者神國也。神即天皇、天皇即神也、全無差。

と。これ明かに善隣國寶記に據るものにしてその基は神皇正統記にあること斷じて疑ふべからず。 然らば豐臣氏の外交またこの記に負ふ所あるや明かなりといふべし。

かくの如くにして著者の國體論は漸くに世に認められて、進んで大日本史となり、明治の維新 の原動力ともなりしなり。更に又著者の神道論も一條兼良等によりて繼承せられて、漸次に改善 せられ、著者の道徳論も亦林羅山、熊澤蕃山、雨森芳洲等によりて繼承せられ、漸次に改善せら れて今日に至れり。されど、それらの事は今一々説く遑を有せず。

要するに、著者は偏狹なる國家主義者にあらずして包容的進歩的の理想家たること著しく、又 永く後世を指導せる偉人なりといふべし。而して日本帝國の運命この一書にかゝり在したりしを 見るべく、道徳修養の資としても從來かつてなかりし偉大なる書にして今に至りてもなほその指 南車たる價値を減ずるものにあらざるなり。

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