第二 建武中興の本旨

建武の中興の事實は小學生に至るまで知らざるものあらざらむが、その中興の意義又は精神に 至りては知らざるものなしとせず。この精神意義を明かに知らむが爲にはこの改革を必要とした る所の前代よりの積弊を知らずばあらざるべからざるなり。今これを考ふるにその主要なるもの のみにても少からぬなり。

一、

先づいふべきは攝政關白なり。攝政は今は天皇御幼沖又は御病氣などの事情にて久しきに わたり御親政の事を行ひ難き時におかるるものなるが、古來皇后皇太子などの攝政せらるるを本 義とす。されば臣下の攝政といふものは上代にはなかりしなり。これは皇室以外に假りにも大權 の移ることを防がれたる事にして至當の事なり。然るに清和天皇が九歳にて御即位ありし時、外 祖父藤原良房攝政となれり。これ臣下の攝政のはじめにして天皇の大權の臣下の手に委ねられた るはじめなり。良房は清和天皇御成人の後も攝政をやめず、次の陽成天皇の御時にも良房の子基 經攝政となれり。その次の光孝天皇は御即位の時御年五十四歳にてあらせられしかば、攝政とい ふ名目を改めて關白とせられたり。

攝政は天皇の名に於いて大權を專行したるものなるが、天皇御成人の後にも之を行ふといふに ては天皇は殆ど、有名無實とならせ給ふものにして、天皇親政の根本義にもとるものなり。關白 は攝政よりは稍輕き點あれど、大政を總管して、天皇に奏上するにも、天皇の制下せらるるにも、 必ずその意見をまたざるべからざるものなれば、實際に於いては攝政と大なる差なし。この二者 は法規上の施行手續には多少の差異あれど、實質上、臣下が大權に干渉する點は殆ど同じ。かく て宇多天皇の御世に關白基經薨じたる後は之を止められ、次の醍醐天皇の御代には攝關はおかれ ざりき。その次の朱雀天皇の御世には又藤原忠平攝政となり、村上天皇の御代に及びしが、天皇 即位後四年に忠平の薨じて後、この御代に再び攝關を置かれざりき。然るに、その後の冷泉天皇 の御世よりは藤原氏必ず攝政か關白かに任ぜらるること政治の原則のやうになり、ただ一條天皇 の御世に二十年間と堀河天皇の御世に五六年間攝政關白を置かれざりしを異例とするに至れり。

後醍醐天皇の御世も、はじめは關白をおかれしが、建武の中興と共に之を廢せられて、芳野朝 廷にはその終まで殆ど全くこれを置かれざりき。これは清和天皇以來四百七十餘年つづきたる積 弊を矯められたるなり。

二、

次は院政の問題なり。上述の如く攝政關白といふもの生じ、大權は臣下たる藤原氏の手に 委ねられたる姿になりしが、後三條天皇はその藤原氏の專權を抑へられしにより皇室の御稜威稍 囘復の運に向ひしが、不幸にして御在位久しからざりき。次の白河天皇は藤原氏の權を十分に抑 へられ、これより後は攝政關白は名のみの姿となれり。かるが故に皇威は前よりも重くなりしが 如くに見ゆれど、ここに又御讓位の後に院中にて政を親らせらるる事を生ぜり。これ即ち院政に してここに天皇の大權が、臣下の手よりとりかへされて皇室にもどりたりといふ點は或る點より 見れば、前よりもよくなれる如くに見ゆべきが、その院政といふものは御在位の天皇の上に政治 上の實權を握るものを生じたる事にして、攝政關白によりて大權の犯されたりといふ事とは別の 意味に於いて、而して一層甚しく天皇の御位を輕くしたるものなり。上にいふ如く藤原氏は專横 にてありしかど、彼らは公式の手續の上にて天皇の御任命によりてはじめて攝政にも關白にもな りたりしものにて實質的に專横を極めたりといへども、法規の上にては天皇の大權を干犯するが 如き事は行ひ得ざりしなり。然るに院政に在りては上皇法皇が、天皇の上に居て天下の政治を左 右せられたるなり。これにては天皇以上の權力が名實共に存することにして、絶待尊嚴なる天皇 の大權をけがすこと著しきものあるなり。

かやうに院政といふ事起りてより、天皇は御即位ありても院政の行はれてある間は御親政とい ふ事は行はれず、ただ天皇の位に備り居たまふに止まる例となれり。それ故に天皇が實地に政治 を執らせ給ふことをば院より政務の御讓を受けたまふといふ事にてありき。本書後深草院の御事 を敍して「伏見の御代にぞ暫く政を知らせ給ひしが御出家ありて政務をば、主上に讓り申させ給 ふ」とあるが如きにてその實際を見るべきなり。

かくの如くにして院政といふ事はじまりて、二百三十餘年間續きしが、後醍醐天皇の即位後三 年、元亨二年に後宇多院が自ら院政を止めて、政務を後醍醐天皇に讓られてより天皇御一代の間 はもとより芳野朝廷には院政は行はれざりき。この院政廢止も明かに皇政復古の一の姿なるが、 これは建武中興よりも十二三年前に實現せしものなり。

三、

次には幕府の存在と北條氏が皇位を左右せし事なり。

幕府は元來近衞の大將又は外征の將軍が軍務を執行する所の義なり。されど、ここにいふは鎌 倉幕府の事なり。鎌倉の幕府は名義上よりいへば、源頼朝が右近衞大將又は征夷大將軍に任ぜら れぬ以前には存すべきものにあらねど、その實際は頼朝が壽永三年に公文所を設ける時に生ぜり。 これははじめ頼朝の私領の事務及び家人に關する事を掌りしものなるが、頼朝が日本一國の武人 の管理者となりてはそれらに關する行政司法財務一切を掌るやうになれり。しかも實力の存する 所には權威も生ずる所以にして幕府はいつの間にか實際上、日本國の政務の機關として一の行政 司法の府たる姿を呈しぬ。かくて武人の身上のみならず、天下の政治を左右するやうになりては、 たとひ、名義は幕府といへども、天皇の大權をば實質上干すことになれるものにして天皇親政の 本義を害すること著しきものなり。

さて頼朝こそ平家を滅したりといふ大功もありつらめ、その子頼家實朝その後をつぎ、功もな く才もなくして天下の權に喙を容れ、剩さへ、源氏の家頼たる北條氏がその幕府の實權を握りて 大權に干與することなどは不都合も甚しきものなり。されば、後鳥羽上皇、順徳上皇が、實朝の 歿後これを廢止して統一の御世に復せむと企てられたるは當然の事といふべし。

然るに承久の變にて世は逆になり、陪臣たる北條氏が上皇を遠島に流し奉り、天皇を廢立する こととなり、これより後は北條氏の權力は益つのり、名義上の將軍は在りて無きに等しく、幕府 の實權は全く北條氏の手に移り、その北條氏は實際上天下の大政を左右し、剩さへ、天皇の御位 はすべて北條氏の差圖にて決定したり。世には兩統交立といふ事を定めたりとて北條氏を責むる が、それはもとより責むべきなれど、これよりも一層根本の問題として、承久の變以後常に皇位 を左右したる不臣の罪をとふべきなり。この北條氏の不臣は時弊の最も著しきものなりき。

かくの如く北條氏が、天位を左右すといふ事は天皇の大權を干犯すること、攝關院政の上にあ るものにして院政の如きも亦北條氏の左右する所なりき。後醍醐天皇御即位の後、間もなく院政 を廢せられて親政となり、關白は名義上未だ存したれど、それも昔の威權は既に存せざりしなり。 されば當面の最も重き問題は北條氏が天位を左右することを止むること及び、幕府を廢すること にありしが、當時の情勢、この二は言論を以てしては行はるべき見込なく非常手段を用ゐて北條 氏を亡し、幕府を倒すより外に方法無かりしならむ。かくてかの北條氏討滅の御企あり、再度そ の企は挫折せしが、終に成功して建武の中興となりしなり。ここに於いて承久以來百十餘年間に わたり、皇位を左右したりし北條氏亡び、頼朝以來百五十年にわたりし幕府は廢せられたるなり。

四、

以上の如く建武の中興といふものは天皇親政といふことの完全に實現したることをさすも のにして、それには攝政關白の廢止、院政の廢止、幕府の廢止、天位を左右したる北條氏の廢除 といふ種々の事實が一時に實現したるものにして、ただ北條氏滅亡、幕府廢止といふ外面の現象 をさしたるものにあらず。如何にも當面の問題としては北條氏討滅といふことが再難關なりしが 故に、世俗に、この事を以て建武の中興なりと誤認せるものも無理とはいふべからず。されど、 そは皮相の見といふべきなり。

五、

後醍醐天皇の中興の政として積弊を改められたることはなほ多し。その一は名分の亂れを 正されしことなり。

つらゝゝ國史を顧みるに延喜天暦の頃までは種々の事件はありしなれど、大體に於いて皇威は 衰へてはあらざりき。その後は俗にいふ藤原氏時代にして、攝政關白の殆ど常設となりし時なる が、この時代はわが國體の上より見れば厭ふべき衰世のはじめにて、その兆は既に天皇の御稱號 の上にあらはれてあり。それは如何なる理由によるか、今日よりは殆ど首肯しがたき事なれど、 天皇を何々天皇と謚し奉ることは村上天皇までにて終れる如き姿にてその次の天皇よりは天皇と 申さずして、冷泉院、圓融院、花山院、一條院などと必ず「院」と申し奉る例となりしことなり。 本書には之を慨きそのはじめをなしたる冷泉院の條にこれを痛論してあり。かくして冷泉院以後 後醍醐天皇まで三十餘代のうち天皇と申し奉られたるは安徳天皇のみなることこれ亦本書に説く 所なり。かくの如くにして皇威の輕くなりしことは名分の上に甚しきものありしことを知らざる べからず。現今の歴史に必ず某天皇と申し上げ奉ることは上の如き不都合の思想の改められたる 後のことなり。

後醍醐天皇は上の如く天皇を院と申すことの不都合を止められしなり。それ故に本書には後醍 醐天皇と標記し、なほその御謚が天皇生前の思召によることを特筆大書せるなり。これは一は醍 醐天皇の御世の親政の聖代なりしことを慕ひ給ひたる點もあらむが、天皇の御號を復せられたる 事をも考ふべきなり。この「院」といふ號をやめられたる事は冷泉院以來三百六七十年來の弊を 改めて名分を正されしなり。これより後芳野朝廷にては必ず天皇と仰せられたり。北朝又その後 のものに後醍醐院、後村上院などいふことあるは後醍醐天皇の英明を知らぬ愚人の語なり。かく して北朝はもとより積弊を因襲して院といひ、爾來五百年間、また後醍醐天皇の叡志行はれざり しが、天保十一年光格天皇に謚號を奉られてより明らかに再び天皇と申し奉ることとなれり。

六、

後醍醐天皇の御復興の政は又貨幣制度の上にもあらはれたり。わが國にて貨幣を鑄られし は奈良朝よりの事なるが、村上天皇の御世に乾元大寶を鑄られてより後絶えたるなり。この天皇 は建武元年三月廿八日に詔を下して乾坤通寶といふ文の貨幣を鑄しめられき。その錢の實物は世 に傳へず、恐らくは實際に未だ着手せられざるうちに大亂となり。鑄造の實なかりしものならむ か。されど、天徳以來三百七八十年、中絶せし政を復興せられたるものなり。

なほこの外に朝儀を復興せられたる事も、この書に見え、又天皇御自ら年中行事日中行事の著 述あらせられたり。

七、

最後に後醍醐天皇の復興せられたる最も重大なる一項を述べむ。そは文武を一にして兵權 を皇室に收めむとせられたる事なり。これにつきては武門といふものの生じたる弊より説かざる べからず。

武門の生じたる弊は先づ大化の改新より顧みざるべからず。元來大化の改新以前は文武一途に して兵馬の大權は天皇の御手中にありき。時として皇后(皇后も古は必ず皇族より出で給へり。) 皇太子等の代りて行はるることなきにしもあらざりしかど、決して臣下の手には委ねられざりき。 然るに大化の改新以後天皇の大元帥にてあらせらるることの實漸く減じ、又その由の法文もなか りしが故に、軍事上の大權は甚しく輕んぜられたり。延喜式五十卷は朝廷の政事の事務章程なる が、兵部省はその中の一卷に止まるを見ても軍事の輕んぜられし事は著しく見ゆべし。かくの如 く國家の筋骨とたのむべき軍事の輕んぜられし事、これ武門武士といふものを民間に生ぜしめし 根本の原因なり。

世には武門武士の發生の原因を莊園制度に求むるもの多し。莊園制度がこの武門武士の發生に 著しき關係を有することはもとより否定せざれど、それが根本の原因とは思はれず。武士の多く はもと莊園の管理者若くはその警固といふ如き地位のものなりしならむ。それらに武力の生じた るは中央政治が武力を賤しめ輕んじたる結果なり。その理由は、朝廷にて如何に武力を賤しめ輕 んじたりとも實地の問題に對しては、その最後の解決は武力に待たざるべからず。ここに於いて 莊園の管理者はその莊園の最後の保證の爲に各自その部下に武力ある者を集むることを生ぜり。 若し朝廷が武力を十分に備へ、系統的に全國にわたりて統制してありしならば、かくの如きもの の生ずる必要なかりし筈なり。されば、武士といふ一種の業務をするものの生じたるは大化改新 以後の偏文主義の政治の缺陷によるものなり。

さてかやうなる偏文主義の政治の缺陷を補ふ爲に民間に野生したるものが武士にして、これが 實際上わが國家の筋骨となりしなり。さりながらそれらの武士が區々まちまちにては統制なきに より、自然にかれらの間に統制生じ、それが大同について二三の大系統をなすに至れるその大系 統を武門といふなり。而してそれら武門の大宗とする所は源平二氏にてありしことは本書にもそ の端の見ゆる所なり。さてかくの如く諸國の武士が源平兩家に屬したることの原因は何ぞといふ に、それはこの二氏の人々が武勇に富みて武士共がその棟梁として戴くに足るといふ信頼の在り たるによることは疑ふべからざれど、ただ武勇に富みたるのみとは思はれず。武勇に富みたる人 は俵藤太秀郷、藤原保昌など源平二氏以外にも、もとよりありしなり。然るに源平二氏のみが武 士の棟梁と仰がれたるは、その家柄の上に重き關係ありしものと思はる。しかもこれは單に家柄 のよきといふに止まらず、源平二氏は共に皇室の裔たる貴族たるを以てなりしならむ。かくてこ の二氏に諸國の武士の歸屬したるは恐らくは武事は古來皇室の直轄たるべきものとして民心に牢 として存せしに、當時の朝政はこれをすてゝ顧みざりしかば、武士共は古來の精神を失はざらむ と期して、止むを得ず、皇室の末流にして武勇にも富み、家柄もよき源平二氏を首領と仰ぎたり しものならむ。而して世は藤原氏攝關の世なるによりて、皇室の末なる源平二氏は中央にては志 を達しがたきにより地方の武士をその爪牙としたる點もあるべしと思ふ。要するに武門武士の生 じたるにつきてもなほわが國民思想の或る者の反映ありと思はる。

さてかく源平二氏が武士の棟梁と仰がるるに及びては、國家に事あるときはこの二氏の力を用 ゐざるべからざるに至る。この力を用ゐること屡行はるるにつれてここに二氏の實力と世間の信 頼と相結びて更にそれが天下の政權に反映して、この二氏の勝敗が直ちに天下の治亂を左右する ことになれり。これ即ち保元平治より源平の大亂に至るまでの事實なり。而して源平二氏、兩立 して常に對抗したりしならば、世間はたえず、二氏の爭亂に苦しみしならむに、平氏亡びし爲源 氏ひとり武士の棟梁となり、天下の武力、一に頼朝の手に歸したるなり。これ即ち頼朝をして幕 府を開かしむるに至れる事情なり。而してその幕府が一旦確立して武士の統制者となりてよりは 源氏亡び、北條氏が實權者となりてもその統制依然として存したるなるが、これはこの幕府の實 質は實は頼朝にもあらず、源氏にもあらず、北條氏にもあらずして、實に武門武士といふ一大社 會にして、その組織が、幕府といふ外形を有したりしものと見ざるべからず。

ここに於いて後醍醐天皇の幕府廢止はわが國の政治史上非常に重大なる意味を有するものなる を見る。この幕府が實質的に亡び去るには一方に於いて武門武士といふものの否定とならざるべ からざるものなり。若し、然りとせば、これは延喜天暦の古に代るなどいふ淺薄なることにあら ずして大化改新以前の文武一途の大方針に復歸するものなり。而してこの大方針は果して建武中 興に於いて着々實行せられたり。即ち征夷大將軍は皇族の任となりて先には護良親王あり、次に は成良親王あり。又義良親王、宗良親王、懷良親王いづれも一方の重鎭として派遣せられて軍事 に鞅掌せられしなり。而してもとよりの公卿も武事に携り、もとの武士も公卿殿上人に伍せしめ られしなり。かくて足利高氏を寵せられしにかゝはらず征夷大將軍の官職を斷じて授けられざり しもこの根本主義によるが爲なりとす。かくの如くにして大化改新以前の如く、兵權を皇室に收 め、文武一途に出づといふ大規模の政治に復歸せしめむとせられたるなり。

八、

以上述べ來りし如くにして建武の中興には種々の復古的計劃行はれたるが、なほその外に 從前と著しく趣を異にしたるは地方の政治に頗る重きを置かれたることにして、この事は、大化 改新以後殆ど例を見ざることなり。而してその最も重きを置かれし地方は奧羽なり。即ち後醍醐 天皇が京都に還幸あらせられてより四五ヶ月、元弘三年十月に參議右近中將源顯家を陸奧守とし て皇子義良親王を奉じて陸奧國に下され、奧羽兩國を管理せしめられたることなり。この時は上 にいふ如く文武一途の政治なりしが故に顯家は未だ鎭守府將軍にあらざりしかど、勿論兵馬の權 を委任せられたるものなること本書の記事にて明かなり。この時親王は僅かに六歳顯家は十六歳 なりき。顯家の父たる親房は出家の身なれば、表面には立たざれど、親王を補佐し奉り、顯家の 後見として伴ひ下りし事は當時の文獻に證あり。而してこの時に親王の御一行の鎭せられし所は 多賀國府にしてここに到着せられしは元弘三年十一月廿九日なり。

この時皇族御差遣の地方はこの一所に止まれり。之によりてこれを見れば、奧羽といふ地方に 當時最も重きをおかれたる事を見るべきなり。何故にかやうなる事の行はれしかを考へみるに、 これは保暦間記にもいへる如く奧羽二國がその富強に於いて日本半國などいはれ、ことに東國武 士の根據がこの二國に在りたりしが故に、それら東國武士の根據を衝いて、朝廷にその實權を收 めむとせられしものならむ。當時奧羽は或は夷の國などいはれてありしならむに、その實力を認 め、ここを地方的に見て、日本國の富強の重點の存する所と認められ、ここに最愛の皇子を下さ れたる、その活眼には驚かざるを得ざる所なるが、これは恐らくは護良親王と北畠親房との獻策 によるものならむか。

さてこの義良親王北畠顯家の陸奧下向は足利高氏にとりてはその根據を絶たるる一大脅威にて ありしならむ。ここに足利氏の策動と見えて、元弘元年十二月に高氏の弟直義が成良親王を奉じ て鎌倉に下り鎭する事となれるを見る。されど、それは頗る振はざりしことは保暦間記に「古の 關東面影も無りけり」といへるにて明かなり。これを見ても當時奧羽二國の向背が如何に天下の 大勢に重きをなししかを見るべきなり。

建武中興のこの地方施設は果して、效果を示しぬ。奧羽軍の中央に活動せしは前後二囘、足利 高氏の反して京都に占居せしをば討ちて西國に走らしめしは奧羽軍の參加せしによる。第二囘の 奧羽軍の上洛は顯家の戰死によつて功を奏せざりき。義良親王は常に軍中にあり奧羽の地に下ら るること二囘、第三囘の下向は皇太子として下されしこと本書に傳ふる所なるが、この時は海上 颶風にあひて伊勢に吹き還され、後芳野に入りて天位につきたまひしなり。若し、この颶風なく して御下向ありしならば、この奧羽の地は或は一時帝都となりしにてもあらむか。建武の中興と 奧羽との關係の如何に深きかをこれにて見るべきなり。

九、

建武の中興はただ單に幕府を廢せるに止まらず、その精神その施設、實に遠大に、意義の 甚深のものたりしなり。然るに當時の人民多くはこの精神を理解し得ざりしものの如く、加之、 足利高氏の如き、大なる奸物が私慾に走りて、この大事業を妨げ奉りしことは甚だ遺憾なること といふべし。

建武の中興の大業は僅に三年許にして挫折したりしが、芳野朝廷は始終この精神を體して規模 大ならずといへども、よく之を守りて失はれざりしことは誠に畏き極みといふべし。北朝にては すべてこの精神によらず、萬事足利氏のなすがままなりしが故に、この御精神は全然顧みられざ りき。されど、この精神はわが國體の本義に基づくものにして永世不朽のものなり。而して明治 維新に於いてこれが、殆ど一ものこらず實現せられ、更に數歩を進められたることは今更説明す るまでもあらざるべし。されば、明治維新の後、後醍醐天皇をはじめ、この中興の爲に身命を抛 たれたる皇族忠臣を祭られたる多くの官幣社を創建せられたるなり。建武の中興の精神を明かに せば、一面は國體の本義に通ずる所あるべく、一面は明治維新の原動力いづこに在るかを知るを うべし。而してこれは實に本書神皇正統記の指導する所なり。

関聯頁

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