日本人が知つておきたい北樺太の諸々

日本人の北樺太に対するイメージは大体、「石油が出る」とか「ツンドラ」とか「北海道より寒い」とか「露西亜」とか「外国」とかになると思ひます。最近ですと某アニメで観たと云ふ人もゐる事でせう。(中には「露西亜に盗られた」とイメージする人もゐるかも知れませんが、南なら兎も角、北の場合は多分少数派になるかと思ひます) 実際の話、露西亜が樺太にやつて来る以前から日本人は樺太に関はつて来ました。此処では其の辺りの事情を北樺太に焦点を当てゝ纏めてみました。此れを読んで露西亜にどう言ふ感情を抱くかは皆さんにお任せします。

落石(オッチシ)

地名。日露戦争終結の際、樺太民政長官の熊谷喜一郎が初めて樺太に上陸した土地が「亜歴山徳」と呼ばれます。後の「亜港」です。熊谷長官が上陸した日は明治三十八年八月二十三日とされ、此の八月二十三日が後に樺太庁始政記念日に制定されました。此れとは別に、「亜港」の本来の日本語地名は「落石」と呼びます。「亜港」の亜の字は露称が元になつてゐます。歴とした日本語地名が在るのですから、「亜港」ではなく「落石」を使ふのが筋と云ふものです。

鵞小門(ガオト)

地名。樺太で最も北に在る岬で、「樺太千島交換条約」が発効される迄は此の地が日本の最北端でした。此の岬は北緯五十四度を軽く超えてゐます。和人で此処に到達したのは、記録の上では岡本監輔が最初になります。岡本は此処で天照大神を始めとする八百万の神々に祈祷を捧げてゐます。非常に尊い場所です。

北樺太石油(きたからふとせきゆ)

社名。薩哈嗹州派遣軍の駐留が解かれた頃に、国策会社として設立されました。北樺太の石油開発と生産とを事業としてゐたやうです。其の後、日ソ中立条約締結の条件として北樺太石油利権を当時のソ聯に引渡してしまひました。現代は、露西亜が日本の資産をチューチューする為めの撒き餌みたいな状況になつてゐます。

薩哈嗹州派遣軍(サガレンしうはけんぐん)

軍隊の名称。尼港事件の発生を受けて日本は薩哈嗹州に軍を派遣して北樺太を保障占領しました。此の時に日本は「亜港」から「デルビンスコエ」に繋がる軽便鉄道を敷設してゐます。「亜港」の市街地には使はれなくなつた馬車鉄道の路盤(実は此れも日本が敷設した)が残されてゐたらしい。此の廃路盤も再利用してゐます。此の頃から北樺太の石油開発が始りました。そして、日ソ基本条約の発効により、順次撤兵となりました。

全島占領(ぜんたうせんりやう)

歴史。日本にとつて、樺太の全島占領の機会は過去に二度訪れてゐます。(樺太千島交換条約発効以前は国境未確定だつたので別の話になります) 其の一回目は、日露戦争の終盤の樺太の戦ひで実行されました。日本海海戦でバルチック艦隊を沈めた日本軍は其の勢ひに乗つかつて樺太に進撃し、全島占領となりました。此れは、ポーツマス条約での国境線画定に依り、北樺太からの日本軍撤兵となりました。

二回目は、尼港事件の発生を受けての薩哈嗹州派遣軍に依る保障占領になります。此れは、日ソ基本条約の発効により、順次撤兵となりました。

何方も軍政ですが正しく快挙に値します。ですが、南樺太のやうに民政に移行できなかつた事が悔まれます。

ナッコ

地名。樺太最西端の岬が此処に在ります。間宮林蔵の一回目の樺太視察で、松田伝十郎と共に渡樺し、松田は西岸を間宮は東岸を北上して樺太の状況を視察して廻ります。松田は一足先に「ナッコ」の岬に到着して樺太が離島であると検分して間宮の到着を待ちました。松田伝十郎が、樺太が離島である事を検分したのが「ナッコ」の岬となります。

ナニヲー

地名。間宮林蔵が到達した北樺太西岸の奥地の地名です。黒竜海湾の樺太側の北端となる田村尾より少し南に位置する岬の辺りになります。間宮林蔵は、二回目の樺太視察で此処まで来て此れより北は海が拡がるのみと判断して引き返してゐます。ですので、間宮林蔵が到達した樺太最北の地名を「ナニヲー」と呼びます。

北緯五十度線(ほくゐごじふどせん)

国境線。通常、此の線より北側の樺太を「北樺太」と呼びます。ソ聯が日本に宣戦布告する寸前迄、樺太に存在した日ソ間の公式の国境線です。此の線の南側を日本の領土、北側を露西亜(旧ソ聯)の版図とします。嘗ては此の線上の各所に国境標石が立つてゐました。現在は、露側が過去の条約を反故にした状態なので、露西亜視点では正式な国境線とは認識されてゐません。又、日本側の国土の限界は現在宗谷海峡迄なので樺太には国土が及びません。ですが、日本側は過去の条約を反故にした事実はありませんので、樺太に引かれた北緯五十度線は依然、日露間の国境として機能し続けてをります。

幌渓(ほろこたん)

地名。北緯五十度より少し丈北に在る樺太西岸の港町です。江戸時代の頃から日本が経営してゐた土地で、明治政府になつてからは、公式の地名が正式な文書で制定された北樺太唯一の地名です。日本が本格的な行政や各種活動を行つてゐた実績のある土地との理解が正しいです。「樺太千島交換条約」で此の地を日本が手放して以降令和の現在まで取戻せないでゐます。

松前島郷帳(まつまへたうがうちやう)

報告書。元禄の頃、松前藩が江戸幕府に対して領内の地名等を一覧にして報告した文書です。此の報告書の中には「からと島」として二十一の地名が列挙されてあり、現在の北樺太に在つたと思しき地名も幾つか記録されてゐます。

此の頃の露西亜は此れ等の地名は疎か樺太の島の存在すら把握してゐませんでした。

間宮海峡(まみやかいけふ)

海峡名。日本人の人名から附けられた唯一の海峡名です。独逸の医師シーボルトが韃靼海峡の最狭部の名称として「マミヤノセト」を欧洲世界に紹介したのが始りです。其の後、日露戦争が終結して水路告示により「間宮海峡」の名称と領域とが定められました。以降現在まで此の名称が使はれ続けてゐます。樺太と外満洲とに挟まれた海域は日本語で間宮海峡と呼びます。

間宮林蔵(まみや りんざう)

人名。江戸時代の和人で、日本の色々な場所を視察調査して廻りました。生涯で樺太は二度巡つてをり、一度目は東岸から「ナッコ」へ、二度目は西岸を北上して「ナニヲー」で引き返し、海峡を渡つて東韃(外満洲)の「デレン」まで行つてゐます。此の調査に依り樺太が島である事が確認されました。樺太が島である事の確認に成功した人物は間宮が世界初になります。其れ迄の地図は、樺太が半島の版と島の版とを別々に作つたり、樺太を大陸の半島にして「サガリイン」を北側の島にした地図を作つたり色々だつたのですが、間宮の調査結果が地図を確定させました。そして、其の偉業が認められて「間宮海峡」と云ふ海峡名が附けられました。ゲンナジー・ネヴェリスコイ? それなんでしたつけ。

其の外

大体の概要は、以上のやうになります。日本人は、江戸の頃から様々な形で北樺太に関つて来た事が解つたものと思ひます。其の外の、北樺太や北方地域に関する事柄に附いては、別の頁で論じてありますので、以下のリンクから辿つてみて下さい。


「北方領土の日」(060207)

けふは北方領土の日です。公式サイトの記述で学習して、北方領土に対する理解を深めませう。

北方領土返還運動の団体、ロシアが「好ましくない組織」に指定…「北方領土の日」に合わせ揺さぶりか(060209)

【読売新聞オンライン : 国際】タス通信は6日、ロシア法務省が、北方領土の返還運動を展開する日本の「北方領土復帰期成同盟」(北方同盟)を、露国内での活動を禁じる「好ましくない組織」に指定したと報じた。7日の「北方領土の日」を前に、日本に揺さぶりをかける狙いがあるとみられる。(202402071007)

露西亜お得意の見せしめッて奴ですね。日本国が露西亜を制裁対象にしてゐるから、北方領土の日で注目される時期を態と狙つてかう云ふ事を発表するんです。でも、此れは露西亜が北方領土ッて云ふ外交カードを手放したッて意味では無いですね。又、友好的な空気になつたら態度変へて来るですよ。「返す用意はある」とか言ひつゝ金目当てゞ擦寄つて来るです。

まあ一言で言へば、露西亜は日本を金蔓としか思つてゐない、となるです。

令和甲辰年春正月甲辰朔(060210)

けふは旧正月です。今年もちやんと新年が明けましたです。

甲辰朔己酉(060215)

先づ断つておくですが、当該書籍の電子文書化(電子テキスト化)には感謝しておくのです。昭和初期の樺太の状況が簡易な手段で読める事は大変良い事だと思ふです。其の外、子細に附いてはリンク先をご確認願ふです。

旧暦も新年を超えたですので、旧年中の記事を「令和癸卯年の文集」に纏めておいたです。旧記事から行けるです。

辛亥(060217)

東白浦よりも影が薄いのですが、西岸のはうに在る「白浦」です。過去の文集に書き損じがあつたので修正しておいたです。「『樺太アイヌ叢話』(1929年)の地名」の文章も若干修正してあるです。

壬子(060218)

今度は『唐太島』に記載の地名一覧です。シーボルトが日本から欧洲へ持帰つた資料の一つです。正確な時期は不詳ですが、天明六年頃の著作になるです。此れも伝承ですが、「最上徳内」が書いたとされてゐるです。

北樺太の部分を解説です。107番~118番が対象になるです。「シ-ヤ-ツルヱ゜」(108)は「ポロコタン」(107)の次に来てゐるです。『北蝦夷地西海岸図』(間宮資料の一つ)の「シヤツクルヱー」(4012)に比定できるのならば、幌渓より少し南の「万年筆のクリップ型」をした岬の名称になるです。「ホコラニ」(109)は『北蝦夷地西海岸図』の「ホカラニ」(4015)に比定できるです。「・ナヨナイ」(112)は『官板実測日本地図 北蝦夷(樺太) 』に在る「ナイナイ」(118)のに比定できるです。

ナヨロ」(113)、謎の名称です。位置としては『北蝦夷地西海岸図』に掲載の「ナヨンナナイ」(4019)から「ハホマナヰボ」(5001)の間なので、其の間の地名で云ふと「ホトロクコクター」(4021)か「アデゲー」(4022)になるですが、4021番は間宮資料にしか出て来ないですから、「アデゲー」(4022)のはうが蓋然性としては高いと判断できるのです。取り敢へず「ナヨロ」は「アデゲー」(亜多華)の事だと推定しておくです。今の所、当該資料以外に北樺太の「ナヨロ」の地名が掲載された資料を見ないです。

「ハホマヱンルン」(114)は『北蝦夷地西海岸図』の「ハホマナヰボ」(5001)に比定できるです。「ヲハイウンジ-ヨイ」(115)は『北蝦夷地西海岸図』の「ヲハコンチヨヱヱントモ」(5004)に比定できるです。115番は『北蝦夷地西海岸図』での位置から「本所」の近辺だと推察するです。「ヲツチシ」(116)の割註に「海中ニ三鼎ノ如ク岩アリ」と解説されてゐるです。「三鼎」はサンテイと読み、古い支那の金属器を言ふです。此の器の足が三本在る事から、器を引つ繰り返して海に置いたやうな感じに見えたのだとすれば大体想像(イメージ)通りなのかと思ふです。「三鼎岩」(さんていいは)と言へるです。「三人兄弟の岩」より遥かにいゝ名附け(ネーミング)だと思ふのです。 其の外は比定の通りで問題無いかと思ふです。今回此所まで、西岸や南岸は別途やるです。

乙卯(060221)

続けて南岸を行くです。119番~150番が対象になるです。「・チシシ-ヤ」(119)~「・ベシ-ヤ-ツシ-ヤム」(120)は江戸時代の資料なので御多分に洩れず復帰以降と順番が逆になるです。「・コンブイ」(121)は文政期の樺太地図の「コンフイ」(518)に比定できるです。「・ベトロ」(122)は文政期の樺太地図の「ヘトロイ」(520)に比定できるです。「・ポンベシ-ヨ」(123)は文政期の樺太地図の「ホンヘシヨ」(524)に比定できるです。「トマリヲンナイ」(124)が何故「ホンヘシヨ」~「・ウル」(125)の間に在るのか判らないです。比定するならば「泊居内」(復帰後の三ノ沢)なのですが位置は全く違ふです。「キナウシナイ」(128)は文政期の樺太地図の「キナウシナイ」(533)に比定できるです。「ヲシン子コタン」(130)は文政期の樺太地図の「ヲンネコタン」(537)に比定できるです。千島列島の島みたいな名前ですね。「ウラヲンナイ」(131)は文政期の樺太地図の「ウラエンナイ」(539)に比定できるです。

「シ-ユノヽヤ」(132)は論文の通りに写したですが、3~4文字目の「ノヽ」の部分は現実には「くの字点」になつてゐる筈です。ファクシミリ版があると助かるのですが未確認です。「ヱンルン」(133)は『樺太アイヌ叢話』の「エンルモロ」(22)に比定できるです。順番としても合つてゐるので、「三ノ沢」に比定が可能になるです。「トマリヲロナイ」(138)は文政期の樺太地図の「■トマリヲロ」(549)に比定できるです。なので「楠渓」になるです。「・イ子ウシ」(140)は文政期の樺太地図の「イヌウエウシ」(551)に比定できるです。比定の通りであるならば「・ホロヲントマリ」(139)の直ぐ南隣の聚落になるです。

「ヲタルシヤム」(141)は明治四十四年の告示では「小田」(ヲタ)とされてゐるですが、後に隣接する「小田井」に統合されたやうです。「ノシカマナイ」(143)は文政期の樺太地図の「ノシカマナイ」(564)に比定できるです。『大日本地名辞書続篇』四二四頁に在る「犬主駒」が該当かと思ふです。「ノシケタアンナイ」(155)との関連性は不詳です。「ラニ」(148)は文政期の樺太地図の「ラニ」(601)に比定できるです。遠淵から東方向の亜庭湾沿ひで「ヲマペツ」(600)(小満別)の近隣に位置するやうです。「シラリナイ」(149)は文政期の樺太地図の「シラルトル」(604)に比定できるです。地名の並びでは合つてゐるですので「白岩」の事だと思ふです。

「竹島の日」(060222)

別に朝鮮人に限らず、外人が其処に居てもいゝけど、確りと固定資産税と土地等の使用料とは日本国に支払つて下さいね、と俺は思つてゐるです。(いやいや其れぢや甘い、朝鮮人は追放しなきやだめだ、と言ふ日本人もゐるとは思ふですけど。)兎に角、使ふのならば正式な手続きに則つて事を進めなさいッて話です。今の状態は、空家に勝手に這入り込んで周囲を威嚇してゐる質の悪いヤクザと同じやうなもんだと思ふです。

さう言へば「尖閣諸島の日」のやうなものがあるのかなあと思つて調べてみたら、今年は既に終つてゐたのです。

「天長節」(060223)

先日書いた『唐太島』の「ナヨロ」(113)の説明が何だか納得行かなかつたので、別の観点から説明を試みようと考へてゐた処、もう一つの視点が得られたので、此処に記述しておくです。『北蝦夷地西海岸図』に掲載の「ナヨンナナイ」(4019)が実は二語の複合語なのではないかと云ふものです。

先づ、「ナヨナイ」(112)に附いてですが、資料に依つて表記が若干変化するです。確認してゐるのは「ナヨナイ」以外に「ナイナイ」と「ナナイ」とが在るです。此の内、「ナナイ」に附いては『北蝦夷地西海岸図』に掲載の「ナヨンナナイ」(4019)の後半三文字に符合するです。となると、残りの前半三文字「ナヨン」が何なのかと云ふ話になるです。

其処で出て来るのが「ナヨロ」(113)です。上二文字が「ナヨ」で合致するです。そして「ナヨン」の「ン」は「ナヨロ」の「ロ」の撥音便だと仮定すれば、「ナヨンナナイ」は「ナヨロ」と「ナヨナイ」との複合語であると説明する事ができるです。

であるとすれば、「ナヨナイ」(112)も「ナヨロ」(113)も同じ地区の別名であると云ふ結論になるです。名称の説明が無理無くできてしまふと云ふ点で、前回の「ナヨロ亜多華説」よりも蓋然性が高いと見積れるです。

癸亥(060229)

先日書いた『唐太島』の「トマリヲンナイ」(124)の部分が説明し切れてゐなかつたので、此処に追記しておくです。

先づ、此の「トマリヲンナイ」は、後に「三ノ沢」とされる「トマリヲンナイ」とは別の地名になるです。今回説明の「トマリヲンナイ」は、『大日本地名辞書続篇』の四一五頁に「泊穩内」(トマリオンナイ)として立項されてゐるです。解説に ウリウの南方七里なる漁場にして、とあるです。又、明治四十四年の告示では、旧地名の ドロ川(トマリオンナイ) (173)と云ふ河川の名称を、改正地名として泊尾川(トマリヲカハ)に変更してゐるです。其処で「樺太全圖」の該当地域を確認してみると、「泊尾川」の河口近辺に「泥川」の地名が見えるです。『唐太島』の「トマリヲンナイ」(124)は「泥川」に比定できると結論できるです。

其れから、明治四十四年の告示には、古江(フルエ)の旧地名を トマリウンナイ(フルエ) (175)とも書かれてゐるです。若しかすると「トマリヲンナイ」の領域は一時的にでも「古江」にまで達してゐたのかも知れないです。

甲子(060301)

続いて東岸に行つてみるです。151番~199番が対象になるです。江戸時代の資料によくあり勝ちな地名の繰返しが此処でも発生してゐるです。先づ、本書『唐太島』十四丁表の場合、「ウヱンコタン」(154)以下の地名が加筆であると、本論文(最上徳内『唐太島』について)に於いて指摘されてゐるです。ですので、十四丁表に元から記載されてゐた地名は、論文に記載の通りだとすると、「ト゜ンナイシヤ」(151) 「・ヲタウト゜ル」(152) 「ト-ウブツ゜」(153)の三つの地名のみと云ふ事になるです。

「・ヲタウト゜ル」(152)は、文政期の樺太地図にも「ヲタウトル」(722)の記載が在るです。「ヲチヨホカ」(721)と「イタヽウシナイ」(723)との間に位置するです。「ト-ウブツ゜」(153)は「遠淵」に比定できるですが、何故此処に記載されたのかは不明です。154番~160番迄は単独加筆の地名です。何故か「ノシケタアンナイ」が155番の位置に在るですが、此れは文政期の樺太地図の場合、557番で大体対馬崎から女麗の間辺りに記載された地名です。多分「ノシカマナイ」の別名です。「コヌシベ」(156)は文政期の樺太地図の「カヌシハ」(727)に比定できるです。「シ□□コタン」(160)は下記正誤表の通り「シシマヲコタン」になるので、まあ「シ」が一つ多いですが「島古丹」に比定で問題無からうかと思ふです。「イ子ヌシナイ」(161)、「□□ヌシナイ」(162)は何方も「イネヌシナイ」に直せるので「犬主」に比定です。

163番以降は次の十四丁裏と地名の並びが平行してゐるです。論文に依ると十四丁裏に加筆があるとは指摘してゐないので元から記載が在つたとすれば、十四丁表の162番から176番は本文とは別の後附けの記述だと判断されるです。なので此処では、162番~176番を副、177番~190番を正として話を進めるです。「シヨンムナイ」(163)は副にのみ出現する地名です。「宗運」に比定です。仕様も無い話ですが。「ホンナイホ」(180)は副の167番と文政期の樺太地図の744番とに比定できるです。「ホロヱンルン」(181)は副の「ホロヱン」(168)と文政期の樺太地図の747番とに比定できるです。「ト-ウロヽケ」(182)は副の「トールヽカ」(169)と文政期の樺太地図の748番とに比定できるです。 「ヲタトム」(187)は副の171番と文政期の樺太地図の761番とに比定できるやうですが、夫々記載の位置が彼方此方にずれてゐるです。

「コヌ井」(190)は「コ」の字が「マ」の誤記と解釈すれば「真縫」に比定が可能です。「マタンコタン」(192)から先が地名の並び順が滅茶苦茶になつてゐるです。192番~194番迄が文政期の樺太地図での記載順と真反対になつてゐるです。

上段が本書、下段が文政期の樺太地図での地名の並び順です。計数(カウント)の方向が逆になるのが判ると思ふです。「ノ-ツシ-ヤム」(195)が何故此処なのか理解に苦しむです。「ヲリカタ」(196)~「シイヽ」(197)~「コタンケセ」(198)も順番が逆転してゐるです。「タライカ」(199)が終着になるのは江戸時代の定番です。作者も其れは理解してゐたと思はれです。

丙寅(060303)

『唐太島』の解説です。今度は南端から西岸を北上して行くです。「ク井」(2)は、「白主土城」(トイチャシ)と呼ばれるチャシの遺蹟が在る場所です。間宮資料に依ると、ほゞ四角形の土塁が設へられてゐたらしく、其の構造から土地の人が築城した物には見えないとの説明が在るです。其の意見が正しいのならば、「海の西から来た侵略者」(レブングル)が活動の拠点として設置した構造物なのかも知れないです。此処の地名は、『大日本地名辞書続篇』の四一四頁に立項された「具伊」(グイ)に比定できるですが、現今の日本語地名には残されてゐないやうです。

「・ヲツトチシ」(6)は、文政期の樺太地図に在る「ヲツトチシネ」(13)に比定できるです。現今の日本語地名は不詳です。「アカラベシ」(7)は、文政期の樺太地図に在る「アカラヘシ」(14)に比定できるですが、現今の日本語地名は不詳です。宗仁よりは南に位置するやうです。文政期の樺太地図の「アカラカ」(11)との関連性も不詳です。「フーレチシ」(11)は、文政期の樺太地図に在る「フレチシホ」(27)に比定できるです。現今の日本語地名は不詳です。「・ヌシヨナイ」(15)は、文政期の樺太地図に在る「ヌシヨヲイ」(33)に比定できるです。現今の日本語地名は不詳です。「アツ゜イヤタナイ」(16)は、文政期の樺太地図に在る「アトイヤタアンナイ」(34)に比定できるです。現今の日本語地名は不詳です。「・ヌシヨナイ」の北に隣接です。「ツ」には半濁点が附くです。

「レフンソヤ」(20)は、文政期の樺太地図に在る「レフンソヤ」(26)に比定できるですが、位置が違ふです。文政期の樺太地図では、「リヤウシナイ」(利良志川に比定)よりも南側に位置するです。記載位置のずれか、別地同名の地名か、判断不能です。現今の日本語地名も不詳です。「シクシナイボ」(22)は、文政期の樺太地図に在る「シユツシナイ」(44)に比定できるです。多分、「渋牛」に比定できると思ふです。「マツランナイボ」(23)は、天保期郷帳に在る「マチラシナイ」(3)に比定できるです。多分、「藻白」かと思ふです。「・シイナイ」(25)は地名では無いですが、「椎内川」の河川名で残されてゐるです。「トコシナイ」(30)は、文政期の樺太地図に在る「トマシナイ」(58)に比定できると思はれるですが、「トンナイヲロ」(33)の南隣か北隣か不詳です。現今の日本語地名も不詳です。「・ツンナイヲロ」(31)と「トンナイヲロ」(33)とは、同地異名だと思はれるです。「鳥舞」に比定できるです。「鯡場見立」(32)を当該論文では地名の一つに数へるですが、恐らく傍註の一つだと思ふです。

丁卯(060304)

『唐太島』の解説です。先日は、1番~33番まで説明が終つたので、今回は34番から始めるです。と、其の前に前回遺漏があつたので其の解説を加へておくです。

「ナヤシ」(南名好に比定)は17番ですが、其処の割註に「トヽ嶌」とあるです。此れは間宮海峡に在る島の事で「トドモシリ」とも呼ばれるです。日本語地名では「海馬島」になるです。

「・セトシナイ」(36)は、文政期の樺太地図に在る「セトシホイホ」(64)に比定できるです。現今の日本語地名は不詳です。「ウコウ」(37)と「ヲコ」(38)とは何方も「阿幸」に比定でいゝやうです。唯、文政期の樺太地図では夫々、「ウコウ」は「ウカワ」(65)、又「ヲコ」は「ヲコ」(68)に比定される形になるです。「・キトウシナイ」(44)は、文政期の樺太地図に在る「キトウシナイホ」(80)に比定できるです。日本語地名の「気主」とされる「・キトウシナイボ」(27)とは同名異地の地名になるです。(蛇足ですが「木歳」とも同名異地の地名になるです。)現今の日本語地名は不詳です。

「・ヱンルンコヲマナイ」(46)は、「真岡」の歴史的な地名の一種です。文政期の樺太地図では「エンルムヲマナイ」(84)とされてゐるです。天保期郷帳ですと「ヱンルムカ」(17)とされ、此れは文政期の樺太地図で何故か66番に記載されてゐる名称になるです。「・ヲニチウボ」(47)は、文政期の樺太地図に在る「ヲンチウホ」(85)に比定できるです。現今の日本語地名は不詳です。「・トマリケシホ」(51)は、「泊帆」に比定できさうなのですが、地名の並び順が違ふです。「・ツ゜ンナイケシ」(52)の劣化複写(コピー)にも見えるですので、比定は保留にするです。「・トウキタウシ」(53)は、文政期の樺太地図に在る「トーキタウシ」(93)に比定できるですが、何故か55番の「ツコン」(床丹に比定)との間で地名の並び順が逆転してゐるです。

二月癸酉朔(060310)

此処で地図の名称が判明したので発表しておくです。

私が今迄「文政期の樺太地図」と表現してゐたのは正確には「蝦夷闔境輿地全図」と云ふ名称になるです。制作は1854年で嘉永七年になるとの事です。日本列島の内、北海道・樺太・千島の部分が地図にされてゐるです。

『唐太島』の解説です。今回は、56番から始めるです。

「・カタツシヤム」(58)は樺太の地名としては聞かない名称です。地名の並び順としては「ノタッシャム」(野田)に該当するので、誤記の可能性があるです。「蝦夷闔境輿地全図」に在る「■ノタツシヤム」(106)に比定しておくです。「シラロヽ」(59)は、「蝦夷闔境輿地全図」に在る「シラロヽ」(108)に比定できるです。「西白浦」とは異地同名の地名になるですが、現今の日本語地名は不詳です。「・アルコヱ」(60)は、日本語地名では「荒鯉」になるです。北樺太の「荒子井」とは異地同名の地名になるです。「ベウテケシカ」(61)は、「蝦夷闔境輿地全図」に在る「エウタケシナイホ」(114)に比定できるです。日本語地名の「辺宇気」になるです。「レフンソヤ」(63)は、「蝦夷闔境輿地全図」に在る「レフンソヤ」(119)です。20番の「レフンソヤ」とは異地同名の地名になるですが、現今の日本語地名は不詳です。「ナヨロ」(67)は日本語地名の「名寄」になるですが、漢字の読みは「なより」です。

「・クスリナイ」(68)~「・ライチシカ」(90)迄は地名の並び順が混乱してゐるです。現今の日本語地名と対比できる分だけ以下に並べてみるです。上から下へ、久春内から来知志に移動する順番になるです。

「ワ-ツカフンナイ」(80)は、割註に「川有アリ悉水赤」と在るです。日本語地名の「赤沢」の事だと推定するです。「ヱバラヱンルン」と「ウタシウシ」は81番~84番とで繰返しになつてゐるです。推測ですが、丁度頁の切換はりの部分なので編輯を誤つたものかと思ふです。「ヱバラヱンルン」(81)は、「蝦夷闔境輿地全図」に依ると「ヲタシユツ」(139)から「ライチシカ川」(141)の間に位置するやうです。昨今の日本語地名ですと、「赤沢」(ワ-ツカフンナイ(80)を推定)や「沢舞」や「珍内」の周辺だと思はれるです。「ウツシ-ユ」(79)は当初「歌車」に比定しようとしたですが、読み仮名が うたぐるま なので取下げるです。替つて「小田洲」に比定するです。

長くなつたので此処で一旦切るです。

癸酉朔乙亥(060312)

『唐太島』の解説です。前回は来知志まで来たので、今回は91番から北緯50度線の手前まで行くです。

「・コタンツルナイ」(91)は、地名の並び順としては「蝦夷闔境輿地全図」(以降「闔図」と呼ぶです)の「コタンウトル」(143)に比定できるですので、日本語地名の「古丹」になるです。「ヱジヤラン」(92) は江戸時代の資料からは余り見掛けない稀少(レア)な地名です。「伊皿」に比定するです。「ウシトマナイ」(95)は「牛苫」に比定が可能ですが、此の場合、本来は「・ウソロ」(94)(鵜城に比定)との間で地名の並び順が入れ替るです。

「フローチ」(97) は、「幌千」に比定できるです。此れを前提とすれば、「闔図」の「ウローチ」(145)も同様に比定が可能になるです。(地名の順番は別途要検討) 「・テモヱ」(99) の場合は、旧地名「デモイ」が明治四十四年の告示で「天内」に改称されてゐるので、「天内」の事になるです。

「・ヱシト゜リ」(100)は「恵須取」の事で確定ですが、正誤表を見ると「・イシト゜リ」となつてゐるです。であるならば、「闔図」の「イシツリ」(148)も「恵須取」に比定可能となるです。「・モロヽチ」(101)が「諸津」に比定されるのであれば、地名の並び順は「・リヲナイ」(102)よりも北側になるです。で、其の「・リヲナイ」は例に依つて「千緒」に比定されるです。「北海道歴検図」の「リウンナイ」(643)も「千緒」に比定できると思ふです。「ソーヤ」(104) は間宮資料の「ショーヤ」です。「北宗谷」に比定されるです。107番から先は北樺太の地名です。

『唐太島』の解説は以上で終了になるです。西岸は地名の入替はりが幾つか見られるやうです。多分、北樺太の部分も例外では無いと思ふです、

丙子(060313)

『増補 大日本地名辞書』第八巻は、戦後に復刊された地名辞書なのです。漢字印字は「常用漢字」に掲示された略字に改変されてゐるですが、仮名遣は旧版のまゝ変更されずに印刷されてゐるです。何時もはNDLデジタルコレクション版の『大日本地名辞書続篇』を確認してゐるですが、偶々増補版を所蔵してゐる図書館に足を運ぶ機会があつたので、其れを眺めてゐたら気づいたッて感じの状況です。既に気づいてゐる人もゐるんでせうけれども、かう云ふサイトやつてゐる身ですので記事にしておくです。

「重複」の文字は、「ちようふく」と読んで下さいです。外ではお任せするですが、此処では「ちようふく」の読みでお願ひするです。

己卯(060316)

記事を追記したです。「イオナ島」は厳密には北樺太の範疇では無いですが、其の近隣に在る関係する島嶼としての掲載になるです。「三兄弟」は。掲載後に漏れが判明したですが、日本語名になりさうな表現が発見されたので新たに追記してみたです。

壬辰(060329)

北方地域の話題では無いですが、地名繋がりで、行方が知られてゐなかつた道路元標の一部の所在地が判明したので此処に記録しておくです。
さいたま市内の道路元標
標名 郡域 設置場所 現所在地
大宮町道路元標 北足立郡 大字大宮字大宮3797 さいたま市立博物館の収蔵庫
春岡村道路元標 北足立郡 大字深作字本村3410 さいたま市立博物館の収蔵庫
川通村道路元標 南埼玉郡 大字大口字堤下253-2 岩槻郷土資料館の駐車場

大宮町道路元標。今まで誰も現在の所在地を確認できてゐなかつた道路元標になるです。現在は、さいたま市立博物館の収蔵庫に保管されてゐるです。博物館は、氷川神社の参道で、中央の赤い鳥居の東側に建つてゐるです。なほ、正確な場所は不明ですが、元々は旧大宮市役所の敷地の近辺に設置されてゐたものと推測するです。現在は取潰されて更地になつたです。

春岡村道路元標。今まで誰も現在の所在地を確認できてゐなかつた道路元標になるです。現在は、「大宮町道路元標」と同じく、さいたま市立博物館の収蔵庫に保管されてゐるです。なほ、正確な場所は不明ですが、元々は春岡公民館の敷地の近辺に設置されてゐたものと推測するです。

川通村道路元標。さいたま市立博物館の職員に確認した際、情報が開示された道路元標です。現在は、岩槻区に在る岩槻郷土資料館の駐車場の脇に配置されてゐるとの事です。此の道路元標に附いては、予てより様々な情報が見られるです。(1)岩槻区保健センター2階、(2)岩槻郷土資料館に収蔵。現状は未確認ですので何とも言へない状況です。元々は旧村役場の脇に在つたのか、JA川通支所の近辺に在つたのかと言つた処です。

今回は、誰も知らなかつたと思はれる道路元標二基の所在が判明したので、此処に公表しておくのです。(少くとも、インターネット上での情報開示はR6/03/29現在存在しないです。)

乙未(060401)

29日の道路元標の件で、一覧表の「自治体」の項目を「郡域」に修正したです。自治体の名称は道路元標の名称に組込まれてゐるです。(浦和町は怪しいですが)

三月癸卯朔壬子(060418)

江戸時代に制作された千島樺太北海道の詳細な地図です。特徴は樺太の地形が東西に痩せた構図になつてゐる点にあるです。其の関係で内陸の地名(田越や喜美内)とかが省略されてゐるやうです。

北樺太西岸です。「サツルイ」(46)以降が北緯五十度線以北の地名になるです。「サツルイ」は幌渓の南に在る万年筆のクリップのやうな形をした岬の名前です。「ホコラニ」(49)は、幌渓と木透との間に在る岬の名前です。なので、「キトウシ」(48)と記載の順番が入替はつてゐるです。「チシコマナイ」(54)は『岡本誌』の「散狛間」(下巻十三丁)に比定できるです。「マクンケイ」(55)は『岡本誌』の「藻子間」(下巻十三丁)に比定できるです。此方は順番も合致してゐるです。

「ヘツヲロ」(62)は記載の位置としては「有奴郎」と同じ位置になるやうです。たゞ、此の場所を「ヘツヲロ」とするのは今の処、此の資料以外に見ないです。「ヲシヽルフラ」(68)は『岡本誌』の「押見浦」(下巻九丁)に比定するです。外の資料では余り見掛けない稀少(レア)地名になるです。「ハンケエシル」(66)と「ヘンケエンル」(69)とは内陸側に名称が記載されてゐるので、奥地の地名か山岳名かかも知れないです。間宮資料に出現する地名は「ムシヒ」(84)が北限になるです。

「カルヲー」は85番と91番とに出現するですが、二つ共『岡本誌』に記載在りです。若番が下巻七丁の「餓屢隖」、老番が下巻五丁の「餓屨隖」、微妙に文字を変へてゐるのが憎いです。同様に「ムシヒ」も84番と93番とに出現するですが、全く別の地名です。「キリカ」(90)は昨今の地図では増穢の直ぐ南に配置される事が多いやうですが、当該地図では「バイカル湾」の対面南側に位置するやうに配置されてゐるです。何方が正解かは判らないですが、少くとも「樺太湾」の湾岸では無いのは確定だと思ふです。「トツカ」(94)は『岡本誌』で「戸塚」(下巻四丁)と書かれるですが、「ノテト」(63)の別名の「トツカ」(テツカとも言ふ)とは別の地名です。「マチケカヲト」(98)は半島(岡本半島)の北部、鵞小門岬と「マリア岬」との中間に在る地名です。此の地図での最北端は「スメレイ」では無く「カヲト」(99)とされてゐるです。

地図の中に傍註が在るです。「ヲツチシ」(52)には「辰年ヨリ魯人住」と書かれてゐるです。恐らく安政三年(1856)の辰年だと思ふです。尼港の建設が嘉永三年(1850)なので其の6年後のやうです。「ホンメト」(92)には「暗洲多シ」とあるです。此処ら辺りの「樺太湾」は船が座礁し易い浅瀬になつてゐると思はれるです。

多数の資料で見掛ける「田村尾」が此の資料では完全に無視されてゐるです。「マウチシ」、「サンケイ」、「トウホウシ」、「ヘツヲロ」、「ハンケエシル」、「ヘンケエンル」の六つは謎の名称です。 「ホクチシ」、「コロフトセツヘ」は洋名らしいですが何の事やらさつぱりです。

癸卯朔乙卯(060421)

北樺太の東岸の日本語資料は、殆ど潰滅状態です。其の中に在つて、当該地図資料は当時としては貴重な情報を提供して呉れた稀有な存在になるです。東岸の地名で此の地図に対抗できるのは岡本監輔著述の『窮北日誌』程度しか無い状況です。たゞ、何方も時代的な制約もあつて地名の正確な位置迄は再現し切れてゐないのが実情です。一往、今回の資料は「概図」と略す事にするです。

以下、個別の地名の解説になるです。「ヌカチアン」(101)以降は北樺太東岸の地名になるです。北から南へ東岸を移動して行き、南樺太東岸の「シンノシレトコ」(165)迄とするです。「トウロント」(105)は、盧碁理から音沓戸へ行く間に在る地名です。『岡本誌』の上巻廿八丁の「泥生戸」に比定しておくです。「ヘレントウ」(110)から「ハルコニ」(114)迄の間には「概図」に依ると三つの地名が在る事になつてゐるですが、『岡本誌』に比定可能な地名が見られないです。逆に『岡本誌』の上巻廿五丁表に「鰭持齒」(ベレモチバ)と云ふ地名が出て来るですが、此れが「概図」には見られないです。何方かゞ何方かを参照して資料を制作したのでは無いとの証左となり得る証拠の一つとして提出できるです。

「ハルコニ」(114) は『岡本誌』だと「春國」(上廿四丁)と書くですが、読みはハルクニではなく「ハルコニ」とされるです。「ハルコニ」(114)以下、 「メロクオー」(129)まで完全に『岡本誌』と地名情報が平行してゐるです。「ルモ」(128)は更に南の内陸に「ルモウ」(139)の名称も現れるです。「鷺毛隖」は河川全体の名称だと『岡本誌』に説明があるですので、128番の「ルモ」が下流部分、139番の「ルモウ」が上流部分の河川の名称を指すものゝやうです。

「チヤアモキ」(134)と「カシハ」(137)とは共に指を指して見える範囲内に在る東岸沿ひの地名になると『岡本誌』の上巻十七丁に説明されるです。「ウエンコタン」(138)と 「ラトマノツフ」 〈洋名〉(135)とが大体同じ緯度だと思つてゐたですが、「概図」では幾らか南北に離隔されてゐるやうに配置されてゐるです。参照した資料の影響なのか何なのかよく判らないです。「ヌー」(140)は『岡本誌』や『大日本地名辞書続篇』(以下『辞書』と云ふ)での「縫鵜」に比定できるですが、外の系統の資料に現はれる「ウノ」が此の「ヌー」なのではないかと『辞書』の四九〇頁に解説が在るです。「ヌー」には「此辺レフンヲロツコ住」との傍註が在るです。既に「ヲレカタ」の呼称では無くなつてゐるです。「チヤアモキ」(143)は『辞書』内の地図に在る「チアラ山」の事を言つてゐるのかもです。134番の「チヤアモキ」は関係無いと思ふです。「ホムシ」(145)以下から南樺太に這入るです。

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  1. 平成己亥年の文集
  2. 令和庚子年の文集
  3. 令和辛丑年の文集
  4. 令和壬寅年の文集
  5. 令和癸卯年の文集

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