異体字対正字

公開 : 2005/08/21 © 平頭通

どうも、南堂さんの話題が此方にも飛火してしまつたやうなので、少し辯明しておきます。私は南堂さんのやうに、文字コードに対する決定権を持つた人間ではないので、私の意見が即ちJISの意見であると云ふやうに短絡的に判断される事がないやうに豫め注意を喚起しておきます。

事の経緯

私がfunaki_naotoさんの運営する「はてなの茶碗」(2005年08月17日(水)) のコメントに以下の書込みをしたのが発端になります。他人のサイトでこんな事になつてしまひ恐縮です。

# 平頭通 『私も南堂さんの「2004 JIS をめぐる混乱」は読みました。やつてゐる事は正論なんですよね。唯、譬喩が多過ぎる上にあまり効果的ではないと来てゐるもんだから、ややもすると誤解され兼ねないやうな状況ではあります。私自身の意見は既に自分のサイトで公表してありますから、之以上は必要ないと感じてをります。2004JISの場合は、例示字体の変更ですから、異体字が隠れてしまふと言ふのが正解ですね。後は異体字を呼出すやうな仕組みを作れば問題は回避される筈です。某所の、「国語国字問題を思い出せばわかるように「正統」なんて概念は、すでに昭和前半にぼろぼろに崩れ去っている*2。」なんかは酷いもんですね。正しい字体が在るから、其の関聯で異体字が存在できてゐると云ふ事が此の人の頭の中からスッポリ抜け落ちてしまつてゐるやうです。感情的になるのも考へものです。文字コードの方面で正字が復権できる事は証明されました。次は全面的な正字の復権ですかね。』

した処、karpa(kaz)さんと云ふお方から以下のやうな書込みがありました。

# karpa 『正しい字體があるから異體字がある、といふのはどこから出てきた着想ですか。七が三つの喜は正しい「喜」があつたからあるのだ、といふことですか? それはあまりに異體字の發生についてステレオタイプ過ぎではありませんか。

南堂さんのページの比喩は、效果的でない、ではなく比喩になつてゐないと見るのがよいし、何に對しての責任を彼が負ひたいのかもわからないのに、正論であるとかないとか言ふのは無理があるのではありませんか。』

なる程、と思はれる内容ではあります。以下に、私自身の考へを纏めておく事にしますが、私は南堂さんではありませんから、全てが全て其の人の意見を同意するものではありません。

取敢へず、コメントには下記のやうに簡単な返事をしておくに留めておきました。

# 平頭通 『「七が三つの喜」は、「喜」の草書体の一つと判断します。着想と云ふか、正字と異体字の関聯性が保てないのであれば、異体字自体が宙に浮く事になり、結果的に字音字訓字義の違ふ別字と判断される事になります。其れは既に異体字とは呼べません。「正論であるとかないとか言ふのは無理があるのでは」と云ふのはどのレヴェルでの話でせう。後で「詞の玉垣」の話題にしておく事にします。』

平成十七年八月廿一日

異体字と呼ばれる文字の存在

先づ、私は漢字制限には全く賛同してゐない事を言明しておきます。印刷字体、書写字体、電子文書の画面表示、等々必要な部分で必要な文字が使へれば、其れでよいでせう。かと言つて、闇雲に略字や俗字や譌字や誤字や伝統的な楷書などをを混沌の状態で存在させるのも良くないと考へてをります。本来は、正字(代表的な字体)と云ふ概念としての漢字の筋を通して、其の筋に沿つた形で、様々な字体や書体の文字を定義できる体系が漢字の世界に存在する事が望ましいと考へてゐます。其の場合、私は正字に対応する別の字体や書体の文字を「異体字」と包括的に表現する事にしてゐます。

正字は、正しい字体とも、適切な字体とも、代表的な字体とも呼ぶ事が出来ます。其の字体は其の侭の形で字引を引けば其の字体に対応する字音や字訓や字義を調べる事が出来る文字でもあります。異体字と比較して文字としての定義が確りとしてゐるのです。

異体字には必ず其の文字に対応する正字が存在します。異体字は正字との関聯性が保たれてゐる状態がある限り、其の文字としての機能が発揮できるのです。逆に、異体字が正字との関聯性を保持できなくなつた場合は、異体字としての機能を失ふ事になり、結果的に、全く別の文字と判断される事になります。其れは最早異体字とは呼びません。

私は先のコメントに「正しい字体が在るから、其の関聯で異体字が存在できてゐる」と書きました。其れは上記の内容を踏まへた上での表現である事を理解して頂けると有難いと思ひます。以上が、「正しい字體があるから異體字がある、といふのはどこから出てきた着想ですか。」に対する私の答です。

私は又、異体字の発生云々について論じてはをりません。「それはあまりに異體字の發生についてステレオタイプ過ぎではありませんか。」との事ですが、どのやうな経緯にせよ、正字が在るから其の関聯で異体字が存在すると云ふ図式に変りはありません。異体字の発生云々については、字源の研究なり、書体変遷の研究なり、印刷活字の研究なりの成果に譲る事にします。私の考へ方に間違ひが在ると言ふのであれば、もつと具体的に御指摘願ひます。

正論と呼んだ理由

何に對しての責任を彼が負ひたいのかもわからないのに、正論であるとかないとか言ふのは無理があるのではありませんか。

南堂さんの言はれる「責任」と云ふのは、恐らく今回の件の発案者として此の件について御自分なりの説明をしたのだと云ふ意味だと思ひます。其れは、他の当事者が「説明責任」を果してゐないと云ふ内容からも判ります。唯、実害の及ぶ人に取つては、必ずしも「責任」を果してゐるとは見られないかも知れません。

最も基本的な部分を突いた正論ならば、野嵜さんの「闇黒日記」の平成十七年八月十九日分を御覧頂ければ宜しいかと思ひます。「正字體をベースに、略字體を實裝するのなら、すつきりとした仕樣が出來る。」と書かれてゐます。理念としての文字コードは此の考へ方に全く同意する所ですし、其の路線に乗つて日本語の文字コードを根本から再構築するのも一つの方法です。略字や俗字などの実装は、必要な場面で必要な字形(グリフ)を呼出せるやうな仕組みを導入すれば、解決できない話ではありません。其れよりも正字の概念を疎かにした之迄の文字コードや漢字政策の在り方に誤りがあるのだと言へます。併し乍ら、問題は、現在迄の蓄積をどのやうに対処するべきか。"2004JIS"でさへ多少なりとも混乱が豫想されると言はれてゐる処に、其れ以上の混乱の発生が容易に豫想できる新たな文字コードの作成を行ふ事が現実に可能かどうかは、正直に難しい問題です。根柢的な部分を改変するのですから、相当レヴェルが高い改変になるのは容易に想像できると思ひます。

今回の"2004JIS(JIS X 0213:2004)"の場合は、168字の例示字体の変更はなされますが、之迄の"JIS X 0208"の規定を踏襲してゐます。ですので、"JIS X 0208"で作成された電子文書も異体字に拘る必要さへなければ何等問題なく其の侭の状態で"2004JIS"で作成された電子文書として活用できるのです。更に、例示字体は旧国語審議会が答申した「表外漢字字体表」の印刷標準字体に準拠してゐますので、一般的な印刷物としても十分利用可能な状態になつてゐます。其のやうな部分において私は正論と呼んでゐます。之迄の蓄積が生かされた上で、印刷標準字体と文字コードの例示字体との整合が行はれてゐると云ふ点では優れてゐると判断してゐます。

慾を言へば、正字から異体字の字形(グリフ)を呼出すやうな仕組みを豫め用意した上で、異体字が占めてゐる面区点位置を廃止して行くやうな方向に持つて行かれると有難いと思ひます。此の場合、出来上がつた文字コードには虫食ひが目立つと思ひますが、一定の期間を置けば其の虫食ひに改めて全く別の正字を埋める事が可能になると思ひます。其の際、各々の例示字体の字形も、「表外漢字字体表」の印刷標準字体に合せるやうに、有体に言へば正字体を復帰した上で改変して呉れれば全体的に統一が取れて宜しいと考へます。例へて言へば「飲」と「飮」のやうな食偏の形の違ひが全体としては「飮」の形のやうに統一された上で、必要に応じて文字毎にどの食偏を表示させたいのか選択できるやうになると云ふやうな感じです。「劍剣劔劒剱」(はつきり言つて無駄のオンパレード)も同様に扱ふ事が出来るでせう。基本となる面区点位置が固定されてゐれば、文字としての関聯性も電子文書自体として保持できます。

譬喩について

2004 JIS をめぐる混乱」は、既に読んでゐるのですが、感想としては読み辛かつたと云ふ意見が第一でせう。

自論の補強の為に茲ぞと云ふ場面で使ふ譬喩ならば効果も上るでせうが、感情に訴へるやうな形での譬喩の使用は、逆効果になる危険があります。私には言ひたい事は伝はつて来ましたが、多くの気にしない人々には、どうでもいい事に何をそんなに感情的になつてゐるんだとも受取られ兼ねません。話を整理した上で理路整然と述べられるのであれば、餘計な所を突かれるやうな非難は避けられたと思ふのですが如何でせうか。

「正統」の概念は崩れてゐるのか

「月と太陽のおもいで。」(2005-08-17)での批判は既に文字コードの話題から逸脱してゐる感があります。「私の字体変更への考えを示しておくと、「別に変更してもいいんじゃない」という立場である。」と書かれてある事を見れば明白です。

彼は、まず「文字は正字(正統的な文字)に直すべきなのだ。それが日本語としての慣用なのだから」という前提に立っている。この時点で、すでにこれはただのイデオロギーだ。国語国字問題を思い出せばわかるように「正統」なんて概念は、すでに昭和前半にぼろぼろに崩れ去っている*2。

世の中には正統と聞くと過敏に反応する人々がゐるものです。私は別に正字体だけしか使つてはいけないと云ふやうな偏狭な「正格日本語信奉論者」ぢやありませんから、どんな漢字でも必要な場面で必要な漢字が使へれば其れだけでいいと考へます。唯、正統と云ふ概念は漢字の世界にも必要であると考へるものです。其の点は事前に確認しておきたいと思ひます。

先づ、日本語としての慣用の件ですが、現状の印刷物に絞つて話をすれば、根本に「常用漢字表」が制定されてあり、人名に限つては法務省制定の「漢字の表」があり、其れ以外の一部の漢字は旧国語審議会が答申した「表外漢字字体表」があります。之等が現在の日本で行はれてゐる日本語表記の慣用として認識しておいて誤りはないと判断します。で、今回の改変は、「表外漢字」の部分に係る話ですので、現在の印刷物に印刷されてある標準的な字体に例示字体を整合させた訣ですから、之を「イデオロギー」云々と評価するのは当らないと判断します。印刷物に使はれてゐる標準字体があるにも係らず、敢へて其れから外れた特殊な例示字体を採用してゐる文字コードを維持して行かうと考へるはうが或る種のイデオロギーに寄掛つてゐると思はれます。

次に、正統の概念が本当に崩れ去つてゐるのかと云ふ事ですが、「当用漢字」の制定で意図的に崩されてしまつたと云ふ点で同意します。併し乍ら全てが崩れ去つてゐる訣ではありません。戦前の印刷物は現在も多数現存してゐますし、「旧字体」との関聯で「新字体」が使用できるやうにされてある事を考へれば、「常用漢字」の表内漢字についても完全に崩されてしまつたと迄は言切れません。又、今回の論は、「表外漢字」についての話題ですから、内閣告示等で制定された経緯の無い文字と云ふ意味で、印刷字体は戦前からの字体が保存されてゐるのが現状である筈です。さう考へれば、まあ、表面的には漢字の世界から正統の概念が破壊されてゐるやうに見えるのは解るのですが、謂はば地下水脈として正統の概念は生き永らへてゐると私には感じるのです。そして、いつの日か其の地下水脈が日の目を浴びる日が来る事を願ふものであります。

平成十七年八月廿二日

追記

KoichiYasuokaさんが某所に書込みをしたコメントに依ると、南堂さんは"JIS X 0213:2004"の当事者ではないらしい。詳細は不明ですが、此の点は要注意。

平成十七年八月廿三日

karpakazさんの論について

"Diary / + PCC + / Pasts"(2005年8月22日(月))の「正字(2)」で、反駁てし頂きました。ありがたうございます。例示字体以外の字形を「異体字」とした為、誤解を受け易い表現になつてしまつた事はお詫び致します。加へてkarpakazさんの論に従つて私の考へ方を説明する事も出来ますので、以下に記しておきます。

現状としては、文字コードには少くとも「常用漢字表」と「表外漢字字体表」に示された字体は網羅するべきであり、其の上で更に「表外漢字」の部分は慣例と云ふ意味で所謂康煕字典体にする事が望ましいでせう。又、法務省制定の「漢字の表」の場合、独特の選定基準がありますから、面区点位置を分けて収録するか、グリフアクセスで対処するかは考へ処だと思ひます。現在の文字コードでは認められた字体は漏れなく収録する主義を採つてゐますから、以上に示された三つの規定は無視できないと思ひます。

私の意見は、様々な書体を念頭においた上で、漢字の字形に拘るよりも、字音や字訓や字義や使用状況などの概念を優先させる事を中心に考へてゐます。其の上で、漢字の概念を形で表す為の文字コードの代表的な例示字体はどのやうな物を採用すべきかを考へてゐるのです。其の意味で、例示字体は所謂康煕字典体で統一するのが望ましいでせう。

當用漢字、常用漢字も、實は、正字の體系の一つに他ならない。

其の意見に同意した上で、日本の現状を考へますと、規範として利用可能なものは、「常用漢字表」と「表外漢字字体表」の印刷標準字体だけになります。之等が現在の日本で公的に決められた「正字」になります。法務省制定の「漢字の表」は、一部の字体に二重定義があるので「正字」の規範としては不十分です。又、日本の印刷物における実際の運用については、「当用漢字」を踏襲した「常用漢字」と所謂康煕字典体に準拠した「表外漢字」がありますが、お互ひ依るべき基準が異なりますから、表の内外で偏旁など部分的な字体の差異が現れてしまひます。其の方便として「3部首許容」などと云ふ考へ方が示されたのでせう。

對して、代表しうる字體があつて、それから字形が求められるのだ、といふのは、當用漢字や常用漢字、または、所謂康煕字典體、唐代の開成石經などの科擧標準字形、または、甲骨文字、金文や大篆から導かれた字形を根據にしなければ成り立たない。

私から言はせれば、其れは代表的な例示字体の選定に係る話になります。「当用漢字」を選べば、「表外漢字」は切捨てになり、人の名附けに限り例外的に「人名用漢字」が使へます。併し、之は既に廃止になつてゐます。「常用漢字」を選べば「表外漢字」は所謂康煕字典体になりますが、之は明かなダブルスタンダードです。示偏、食偏、之繞を見れば表の内外の違ひは一目瞭然です。以上が現状の日本の文字状況です。若しも理想的な例示字体を求めるのならば所謂康煕字典体を採るべきでせう。

今回は、karpakazさんの論に沿つて自論を展開してみましたが、尚、反論されるのであればお伺ひ致します。又、何か疑問等があれば併せてお報せ下さい。今回は以上です。

平成十七年八月廿五日

kazさんの論について、其の二

先づは、ハンドル名を誤つた件は訂正してお詫び致します。

kazさんの論では、「字形」を主体とする考へ方と、「字体」から「字形」を導き出す考へ方が在り、現状の日本の文字コードは其の二つの考へ方が同居してゐると判断した上で、今後も其の遣り方で行くしかないとのお考へだと私は読んでゐます。さうだと判断した上で、「字形」を主体として漢字の文字コードを構築するとなると、若しも考へられるだけの「字形」を追録して行つたとしても、様々な書体に基づいた「字形」が存在する限り、利用者の要望如何によつて幾らでも増加して行く事が考へられます。正に「イタチゴッコ」其のものです。「字形」を主体に考へる以上は避けては通れない問題です。

例示字體を明朝體でしようといふなら所謂康煕字典體によるが現状に近からうと思ひます。ただ、當用漢字は明朝で示されてはをらず、そこが瑕疵ですが。

言はんとする処は解ります。日本の文字状況の主流で例にすれば、「常用漢字表」と「表外漢字字体表」と、法務省制定の「漢字の表」と、"overview"のNo.233の規定と、一般的な書物で使用してゐる印刷活字と、『康煕字典』を筆頭とする漢和辞典の見出し文字などが挙げられますが、之等は全て明朝体で記述されてあります。当然私も明朝体で代表的な例示字体を考へるやうにしてゐます。

「当用漢字字体表」で制定された書体も存じてをります。あれは謄写版で使用してゐた書体に酷似してゐます。書写字体の一種ですから、手癖などの影響が出易い書体であると判断します。活字とは違ひますから、書体の違ひの一つと考へる程度で宜しいでせう。

「腐つてゐる」とか「ゾンビ」とか言はれてゐる件は、如何なものでせう。幾ら「常用漢字」全盛の時代でも、現在残されてゐる書物等の文字を読むと云ふ観点で考へれば、見当違ひな表現をされてゐるとされても否定できないと思ひます。又、私は「常用漢字」の字体も漢字字体の一種としては認めてゐます。併し乍ら、漢字全体に筋を通す為の基準に据ゑるには不十分であると判断してゐます。

漢字の文字としての「同定」についてですが、私の理想とする漢字の概念を主体とした文字コードでは、多くの場合、字引と書体字典が在れば事足りると判断します。フォントの作成者は、其の資料を元に、自由な意匠を凝らす事が出来ると考へます。場合に依つては誤字ばかり収録したフォントも可です。現在のやうな「字形」を主体とした文字コードの場合は、提供された例示字体に存在しない「字形」は表示不可能と云ふ事になります。だから「辻」や「葛」のやうな議論が捲起るのです。此のやうな「字形」の問題は近い将来必ず技術で解決できるでせう。面区点位置の規定に無い「字形」が出せないやうな状況が時代遅れになる事を願ふのみです。「見た目」を採るのが現在の文字コードの規定ですが、私の主張は言はば本質論です。私がどんな考へ方をしてゐるか御理解頂ければ十分です。今回、自身の意見を出す機会を与へて呉れた事に感謝致します。

平成十七年八月廿九日

ttkさんの論について

# ttk 『karpaさんのおっしゃっているのはこういうことでは?

「勝てば官軍というように、その時代時代で正座につく漢字にも変容があって、かつての異体字が正体の字を押しのけて正座についたとき、人はそれに服して他を異体字扱いにするものです。本質的には正も異も相対的といえます。」(杉本つとむ『漢字百珍』)

http://homepage2.nifty.com/kanbun/books/sugimoto-kanjihyakuchin.htm』

上記、コメントについて、以下に回答しておきました。

# 平頭通 『では、どうして「正も異も相対的」と云へるのでせう。其れは「正」の漢字も「異」の漢字も音訓義に代表される概念が等価だからです。人は漢字の字形を見て其の概念を読取るのです。本質は字形にでは無く、漢字の字形から読取られる概念にある事を理解すべきです。其の上で、漢字の概念を表すのに相応しい字形を正字に据ゑる事が望ましいと私は考へます。』

漢字の字形だけ見てゐれば「相対的」と云ふ結果になりますが、之は漢字を「見た目」でしか検討せずに結論してしまつた結果なのだと考へます。漢字では様々な概念が表現できます。其の概念を適切に表現できる字形を正字にする事で、より正確な表現が可能になります。

又、俗字や略字と呼ばれてゐる字体は、其の殆どが伝統的な楷書や行書などが元になつてゐます。明朝体で表記される場合もありますが、本来ならば楷書体や行書体などの書写字体で表記されるべきだと考へます。

平成十七年十月廿七日

iwamanさんの論について

iwamanさんから、以上のアンカーに示されるリンク先で御意見を頂きました。殆ど同意する所ですので、改めて意見を挟む必要も無いのですが、気になる点だけ附加へておきます。

『説文解字』や『康煕字典』が作られた當時は「甲骨文字」や「金文」は未だ發掘されてをらず、字形の解釋は、篆文の形に據つてゐました。

許真は、『説文解字』で六書の説を立ち上げたのですが、当時の小篆を元にして陰陽五行等の説に依つて分類したやうなので、漢字の元々の意味から外れてしまつたものも少からず在るやうです。でも、六書については、内容の定かでない「転注」以外は今でも有効に働いてゐます。古い書物の記述から仮名遣を明かにした契沖のやうに、漢字も小篆よりもつと源流の記述から其の字源を明かに出来ると又違つた体系が見出せるのかも知れません。

木簡や竹簡に當時の何とか筆(失念)で書かれたものは篆文となり」とありますが、現在では石碑や印璽に残された篆文が殆どではないでせうか。当然、木簡や竹簡に書いた物も在つたとは思ひます。

技術的制約がなくなれば、「漢字のイデア」に基いて考へれば四畫草冠を使ふべきで、實際、台灣では明朝體でも四畫草冠が使はれてゐました。」、臺湾には行つた事が無いので四劃草冠が実際に使はれてゐるのは知りませんでした。日本では、戦前の活字字形を見るに、漢和辞典の見出し字以外には四劃草冠は見る事がありませんでした。例へば、『字源』を纏めた簡野道明さんの出版に依る『論語集註』が手元に在るのですが、「蓋」「莫」「藻」「舊」「若」「菜」「蔡」「葬」など、外にも在ると思ふのですが、皆、三劃草冠で印刷されてゐます。其れに、草冠の元の形は「艸」ですから、仮令四劃と雖も其の状態で既に字形が訛つてゐる事になります。四劃草冠の使用を阻む訣ではありませんが、活字印刷の実態から考へれば三劃草冠に軍配が上がります。因みに旧国語審議会の答申『表外漢字字体表』でも四劃草冠は漢和辞典に用ゐられてゐるとの見解を示してゐます。

戰後の國語國字改革は間違つたものを強制したから惡いのであつて、強制することそのものは惡いことではない、といふのが私の考へです。

慥かに「間違つたものを強制した」のは拙いと思ひます。根拠が薄弱だから「強制」と云ふ手段に出る訣です。強制するしないは別として、正しいと認められるものを根拠を提示できる状態にしておくべきだと思つてゐます。漢字の場合の根拠を何処に置くかですが、正字として認められる字形以外に、書体の違ひや変遷も考慮する必要があります。楷書には楷書としての字形があります。楷書で正字に似せて書く事も可能ですが、矢張り本来の楷書の字形で書くのが本筋だと思ひます。さう云ふ点も戦後の国語改革で有耶無耶になつてしまつたと言へます。

正字は、表語文字に対する意味と概念との対応が的確になされてゐる必要がある為、其の字源にも注意を払ふのは当然として、書体の違ひでは、各々の書体でどのやうに書かれて来たのかを明確にして適切な字形で表現される事が肝要なのだと考へます。詰り、漢字は「常用漢字」しか使へない訣でもありませんが、正字しか認めないとなると其れも又違ふのではないかと思ふのです。世間には様々な字体や書体の漢字が在るのだから、意味概念と云ふ一本の筋を通す為に正字が必要なのだと考へます。


(続きがあれば下に記す)

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